「ホントウの自分」と出会う!

高専低学年(~3年生)からの提案

しくじり人生

1955年、田舎の長男として生まれた私は、幼少期から「跡取り」としての役割を意識しながら育ちました。父は8人兄弟の長男であり、彼もまた跡取りとしての責任を負っていました。そんな私は跡取りとしてふさわしい人生を歩むこと、また他の人々に対して恥ずかしくない生き方をすることが自分らしく生きることだと考えながら過ごすようになっていたのです。世間で言われるところの「間違ったこと」をしてはいけないと。そんな気持ちが具体的になっていたのが高専時代だったと思います。

高専低学年時代の経験を振り返ることは、定年後の生き方を見つけるための貴重なヒントになります。この記事では、私の高専時代の具体的なエピソードを通じて、過去のしくじりから学び、未来への道を切り拓くための教訓を共有します。

高専時代の思い出

高専に入学し、バスケットボール部での活動を通じて、努力が成果に繋がることを学びました。他校の優れた選手たちと切磋琢磨する喜びを感じました。

高専に入学したのは、大学入試の勉強をしなくても良いという理由からでした。入学早々、私はバスケットボール部に入部しました。このクラブ活動は私にとって大きな喜びの源となりました。他の中学校で活躍していた選手たち、そして全日本選手権で準優勝に輝いた学校からの参加者もいました。そんな環境で、一緒に活動できることに胸を躍らせていました。

特に、3年生の時に行った近くの高校との試合が忘れられません。私は身長168cmと決して高くはありませんでしたが、敵の身長が180cmあるセンターのシュートをブロックすることができました。これまでのジャンプ練習の成果を実感し、努力すれば結果が出るという信念が私の価値観として定着しました。この経験は、他のことにも通じる大切な教訓となりました。

喜びと悲しみの狭間で

クラブ活動に夢中になる一方で、学業との両立が難しく、悔しさや悲しみを感じることもありました。また、音楽に対する好奇心が深まったのもこのころでした。

バスケットボールというクラブ活動に夢中になる一方で、勉学に対する取り組みが疎かになってしまいました。クラブ活動に熱中しすぎて、日常の勉学についていくことができず、試験の結果が芳しくないことに悲しみを感じることもありました。あるとき担任の先生から「クラブ活動をいくら頑張っても進級はできないよ!」と告げられたとき、悔しさと同時に、自分の勉強不足を後悔したものです。

音楽にも深い興味を持ち始めたのもこの時期です。アメリカのフォークソングから日本のフォークソングに関心が移っていきました。そんなことを通じて、音楽は人の感情を表現する手段だと感じて私の心に深く響きました。

恐怖心と学業の両立

成績の低下に対する恐怖心もあって試験前に猛勉強するも、本質的な学びを欠いていたことは反省材料です。またカンニングのエピソードも教訓となりました。

クラブ活動を頑張る一方で、学業の成績が悪かったため、本当に進級できるのかという不安が常に頭をよぎっていました。そのため試験前には他の人よりも勉強した結果、成績は上位を取ることができましたが、本質を理解する学びではなく、点数を取るための勉強に過ぎなかったことが後悔される点です。

また、他人へのやさしさをはき違えていたエピソードもあります。私が試験でいい成績を取ることを知っている同級生が試験中にカンニングを要請してきたのです。私は彼に私の試験用紙を見せてしまい、その彼が大声で「汚い字やなぁ、読まれへん!」と言ったためにばれてしまいました。担当の先生からは「カンニングは見る側だけではなく見せた側にも責任がある」と責任を取らせられたのです。このような出来事は、自分の価値観や行動を見直すきっかけとなりました。

でもカンニングした奴の言葉も私の頭にこびりついています。

「俺ら、カンニングしても100点なんてとらへんし。結局欠点やもんな」

ならなんでカンニングしたんでしょうね?
人の行動って理屈ではわからないものがあるんやなぁって感じた出来事でもありました。
人の行動の価値観って何なんでしょうね?

しくじりと後悔

これらのしくじりから多くの後悔と教訓を得ました。そしてこれらの経験は、自分の価値観を見直す大切な機会となりました。

そんな私の高専時代に、もしアドバイスを送れるとしたら、こう言いたいです。

「表面的な結果で良いとされているものを求めすぎていたのではないか?より本質的な理解を得るための学びを深めるべきだった」と。

たとえば電気工学の実験で、担当教諭から回路構成を見た通りの真似をするのではなく、理論から構成するように指摘されたことを反論したことを覚えています。そして、今ではその通りだと思っています。
目的の出力を得るために、どのような入力をどれだけ増幅すればいいのか、そのためにどのような回路構成が必要かを考えるべきだった、と。

高専時代の価値観と教訓

努力が結果を生む信念、高専での学びが就職に直結する安心感、数学や音楽への関心が価値観を形成しました。これらが私の未来に繋がる教訓となりました。

つまり、自分の本質を見つめることの重要性です。
定年退職後の生活が安定しているかどうかをお金がいくら必要でいくらあるのか?ということではなく、

自分が本当に納得できる生き方をしているかを考えることが大切なんだと。

まだ定年までに時間があるあなたには、
これまでの人生を振り返り、自分の本質を見つめる時間を持つことをお薦めします。
そうすることで、未来に対する不安が少しでも軽減されるのではないでしょうか。

高専の3年生の時、168cmの身長の私が敵の180cmはあるセンターのシュートをブロックできたのは、それまで地道にジャンプ練習をしてきたことの積み重ねからできたこと。
今できることを継続することで大きな成果につながるということ。
そう、努力すれば結果は出ることが私の価値観として定着したのでした。
そしてこの信念は、他のことにも通じる大切な教訓となりました。

数学が好きになったのもこのころ。数学者という人種はおそらく通常の人とは違う高度な頭脳を持っていて私の想像が及ばない人種だと思っていたのです。しかし、代数幾何学では有名なエバリスト・ガロアをはじめ多くの数学者のの伝記に触れたとき、数学者って人間味のある人が多いことを知り、数学が好きになったことを覚えています。
彼らから学んだことは、勉強は覚えることではなく学ぶことだと知ったのです。学んだ結果、自分を成長させてくれるものだと。むつかしい言い方になりましたが、学ぶということは自分が積極的に行動することを指しています。

音楽もフォークソングという人のこころを表現するジャンルに関心を持ち、人のこころ、そして生きる意味を考えることに関心を持ったのもこのころでした。

あなたへのアドバイス

このような経験から高専低学年(~3年生)の私は、会社員生活の中で組織の圧力に耐え忍ぶ精神ではなく、自分が納得できる生き方を目指すことの重要性を伝えています。彼は本質的な生き方を探求するよう勧めています。

これまで会社員生活の中で嫌なことがあってもそれに耐えることが定年退職後の生活を安定させることに繋がるものと頑張ってきた人も多いのではないでしょうか?
しかしそれは違っているかも?

自分が本当に納得できることを信じてそれを礎にすることが大切だということを伝えたいのです。
組織の一員であるときにみんなが同じ方向を向くことに意味ありますが、定年退職したのち一人で人生を歩むときには他人とは違っている自分の本質に目を向けることが大切です。

つまり自分がどうしたいのか?何を求めているのかを基準にすべきなのです。定年をまじかにしているあなたにはこれまでの人生を振り返ってご自身の本質を見つめる時間を持つことをお薦めします。これまでの経験を活かすために「ホントウの自分」と出会ってください。私のように行ったり来たりしないですむように、ね。

あなたが若い頃に感じた喜び、悲しみ、悔しさ、好奇心、恐怖心、これらの感情はすべて、あなたがこれからの人生をより充実したものにするための大切な要素です。どうか、過去の経験を糧に、未来に向けて前向きに進んでください。

人生を輝かせるために個性を磨きましょう!

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