定年後の生活 ~本当に人生を楽しむことの始まり~

休養 ~ゆっくりさせていただきました~

ゆっくりと休む

定年退職してから一年ほどは遊びました。
妻と国内旅行や海外旅行をして。
現役時代に海外へは何度も仕事で出かけてますが、
観光地なんかにはいったことはありません。
私の出張スタイルは、例えばアメリカでしたら
日曜日の夕方日本をたってその日の朝に
アメリカにつきます。
月曜日から金曜日まで仕事して
現地の土曜日昼便で帰国
日本に着くのは日曜日の夕方で
月曜日からは日本で仕事。

アメリカでの仕事内容は帰国する機内で
議事録にまとめて帰国後すぐ配信する
といったようなスタイルでした。
2週間にわたる出張でも間の土日は
一人で過ごしました。
たいてい議事録を書いたり
洗濯したりしてましたね。
多くの出張者は海外の駐在員を使って
観光にでかけたりゴルフへ行ったりしてましたが、
私は駐在員がせっかくの土日を
私のために使うよりは家族に使ってほしいと
思っていました。
とはいえ、ご家族で買い物に出かけるついでに
お土産を買うためにショッピングモールへ
お供させてもらうようなことはしていました。
もちろんご家族を含めて食事くらいは
おごらせていただきましたが。

ですから本当に観光目的で海外へ出るのは
初めてでした。
妻と行ったのはハワイです。
今回は家内と二人でハワイへ。
ゆっくりさせていただきました。
国内では御朱印帳を持っての旅。
なんだかスタンプラリーのように淡路の七福神や
江の島なんかへ出かけました。

ある日、妻が
「お父さん、うちの体重計壊れてるわ」と。
私が乗ってみると
「ホンマや。こんな体重が重いことないよなぁ」

壊れていたのは私たちの身体でした。
慌ててジムへ通い
10kg近い減量を3か月間で達成しました。
カロリー制限と有酸素運動、そして筋トレで。
これでいつでもダイエットできる
気分になりましたが、リバウンドしたことは
容易に想像していただけると思います。
今もこのときと同じような状態になっています。
そんなに遊んでいるつもりはないのですが
やはり代謝が悪くなっているのでしょうか?

なんとかせねば・・・

起業 ~妻のやりたいことで起業する~

妻のやりたいことで起業する

定年を迎えて一年後、私はFPの資格をとりました。
実際に自分はいくらの年金が受け取れるのか?
そして将来にわたって
どのような生活ができるのか?
自分にはそのようなお金の知識がなかったため
資格を取ることを目標にして勉強しました。
そして将来の年金を計算してみると
なんか少ないなあということになりました。

7歳年下の妻のことを考えると
恐らくは私の方が先に死ぬことになります。
現時点では残してやれるお金はないけれど
妻にお金が入ってくるシステムを
残しておきたいと思いました。
そこで妻に「何かやりたい仕事はある?」
って聞くと即座に「探偵か結婚相談所!」って
かえってきました。

たぶん探偵がやりたっかたんだと思うのですが
寒い冬の夜に張り込みをする自分の姿が頭に思い
浮かんだので、幸せなイメージがする
「結婚相談所をやろう!」
ということになりいろんな連盟を探しました。
その中で選んだのが今の連盟。
会員数が最も多いということと
システムがしっかりしていることが理由です。
100万円以上の加盟金を払って
駅前に事務所を借りて開業!

すると開業して一ヶ月の間に
2人の方が入ってくれました。
これはどんどん入ってくるぞ!
とワクワクしていましたが、
半年が経過しても2人でした。
何?これ?PRが足りないのだとバス広告も。
それで2名入ってもらいましたが、
その程度では黒字には到底難しいものがあります。
3年目に入って事務所を閉じました。

おりしも義母の介護や母の介護に
忙しくなってきたところでもありましたので
自宅をサロンとして事業を行うこととしました。

今では10名前後の会員様に入っていただいてますが
まだお世話できる余裕は少しあります。
しかし、価格を安くするつもりはなく
それに見合ったコンテンツを
充実していきたいと思います。

結婚相談所を運営するにあたり
私たちは個性診断のツールを
導入することにしました。
それが一般社団法人
コミュニケーションクォーシェント協会の
開発によるもので12個の尺度でその人の個性を
数値で表すものです。
「結婚したい!」と思う方々の中には
私のようにご両親の価値観や世間体でお相手の条件
を決める方が少なからずいらっしゃいます。
そのような方々に本当にご自身にあったお相手と
出会っていただくためにまずはご自身のことを
知っていただくことを目的に導入したものです。

試しに私たち夫婦の診断をしてみました。
結果は私たちは「補いあう夫婦」と出ました。
そして、
私は自分のグラフの小ささに唖然としたのです。
私は現役時代には一人で海外出張もしました。
あるときは50人を部下に抱える管理職も
経験しました。
その私が、こんなグラフなの!?
3日間くらい落ち込んでいました。
(妻に言わせると1週間くらいといいますが・・)

でも冷静に考えると本当の私はこうだったのです。
だから管理職なんてつらかったのです。
ストレスだったのです。
そういえば嫌だったよなぁ。
だから友達がいないのか・・
とか、納得できる自分がそこにいたのです。

「こうあらねばならない」というように
自分を作ってきてはいましたがそれは
実際の自分の個性とはかけ離れた目標だった
のです。
だからできなくって当然だったんだ!
と思えるとなんだか気が楽になりました。
もう現役時代のことを嘆いても仕方ありません。
これからは自分の個性が納得できる生き方を
したいと思いました。

ある整体のお兄さんにこの診断をしました。
するとこのような接客業には向いていないという
結果が。そのことを伝えると、
とうとうと語りだし「そうなんです」と。
そしてこんな仕事がいいんでは?と提案しました。
一ヶ月もするとその人はお店をやめて
私たちが提案してような仕事につかれたとのこと。
今では楽しくお仕事してはるんかな?

やっぱり、自分を知って
自分がやりたいと思えることをするのが
一番ですね。

介護 ~母に続いて義母の介護~

老親の介護

母が自転車に乗っていて車に接触したと警察から
連絡を受けたのは役職定年になったころでした。

母は入院して手術を。大腿骨を人工骨に代える
手術でした。
本人は入院中にボケるのを嫌がって
算数のドリルをやってみたり

写経をやってみたりしていましたが
やはり入院している間に認知症は
進行していたようです。

自分が手術して大腿骨が人工骨になっていることが
理解できていたのはわずかの間でした。

医師に止められていた自転車の乗っていて転倒し、
同じところを骨折して入院したのは一年後でした。

その次の年にはベッドから起きようとして落ちて
同じところをまた骨折。

毎年、GWの最終日は救急車を呼んで病院にいく
ことが恒例になっていました。

そして入院するたびに
認知症が進んでいったのです。

私が定年退職した後のことですが
買い物に行って袋を二つ抱えて帰ってきました。

中を見ると同じものが・・
買ったことを忘れてまた買いにいったようです。

また、あるとき実家の前のお宅から、
「あんたのお母さんにお金を貸したんやけど
返してくれへん」とか、

夜の11時過ぎに「あんたのお母さんが
ドアをたたいているんやけど」と連絡が。

近所にご迷惑をおかけするような事態に
なってきたので施設に入るよう
母を説得しましたが
自分の建てた家に執着が
あるので絶対に動きません。

そこで三度目の入院の時に
いったん家に戻すのではなく
そのまま施設に直行するように企てました。

ケアマネさんとも連携してサ高住
(介護サービス付き高齢者住宅)
に入れたのです。

まんまと成功しましたが
年明けに電話がかかってきました。

「あんたのお母さんが暴れている・・
電話機を投げつけたり職員を蹴ったりしている」
との連絡が。

どうもある職員の方の行動が気に入らなかった
ようですが
ボルテージは上がりっぱなしでした。

そこで精神病院へ入れて落ち着かせることに。
精神病院の医師からは
「どんなふうにしたい?
薬でどうにでもできるで!」

って言われたときには
ぞくっとしたことを覚えています。

一ヶ月ほどしてから退院し、
その間にケアマネさんが調整してくれた
グループホームにお世話になって今に至ります。

現在では非常にご機嫌に暮らしています。
今では執着のあった実家の話は一切でません。
そこで思いました。
あの家への執着は何だったんだろう?と。

そうそう、ある時、私は母に言われました。
「あんたに帰って来てくれと
頼んだつもりはない」

思い起こせば確かにそうです。
私は長男としてはそうするべきと
勝手に決めていたんです。

そのようにすべきだと教えられていたと
思っていたのです。

確かに考えてみると母や父から
言われたことはありません。

帰って来いとは。

今になって家を息子に継がせなかったのは
正解だったと妻には改めて感謝しています。

自分が長男として守ろうとしていたものが
音を立てて崩れた瞬間でした。

母はあるときそれまで聞いたことがなかった
話をしだしました。

母には好きな人がいて
それは九州の人だったそうです。

ぽつんと言った以降
その話が再び出ることはありませんでした。

自分の両親が夜逃げをするように
加古川へ出てきて嫁いだ先。

それとは別に自分が好きになった人が
遠くにいたこと。

姉が遠くの人のところへ嫁ぐのを拒んだ
ことと関係があるように感じました。

最近になって私は母子手帳を見つけました。
四柱推命や占星術などではよく
私の出生時刻を聞かれるのですが

私は知らされていませんでしたので
わかりませんでした。

これでわかる!と思って
私の母子手帳を開いてみると
そこには
出生時刻は記入されていませんでした。

私はこの家の長男として切望されて
生まれてきたのではなかったんだっけ?

なんで出生時刻が記入されていないの?
ちなみに姉の母子手帳にはしっかりと
出生時刻が記入されていました。

今となっては何が理由なのかは
わかりません。

出生時刻が記入されていない母子手帳が
あるという事実だけが残っています。

私が長男として守ろうとしたものは
今は何一つないのです。

今は週に一度、
母の顔を見るために施設を訪問することが
長男としての唯一の務めとなりました。
お盆とお正月に墓参りはしますけどね。

義父がなくなって一年後
義母は私たちと一緒に暮らすことに
なりました。
まだ元気なうちは
チョコやティーナを見てもらって
その間に私たちは旅行など出かけることが
できるようになりました。
しかし、ここ数年、認知症も進んできました。
もともと足が不自由だったのですが
なんとかつかまり立ちはできていました。
転倒すると大変(骨粗しょう症)だと
言うことで歩行器に頼るようになりました。
そしてデイサービスのお世話になりました。

もともと血圧が高い
(場合によっては200くらいになる)
こともあって、突然気を失うこともありました。
でも義母はそのような体との付き合い方を
よくご存じでした。
その義母が
「苦しい、息ができない」と言いだした時です。
救急車を呼んだのは。
運び込まれた病院は脳外科のある救急病院です。
脳に異常はなかったので
一晩泊めてもらって
帰る予定になっていたのですが、
脊柱管狭窄症が見つかりました。
たまたまその病院に背骨の手術が得意な先生が
いらっしゃいました。
そこで
背骨の一部位を切開することで歩けるようになる
からと手術を勧められました。
私たちとしては歳も歳なので手術はどうか?
と思いましたが
結局先生にゆだねることとしました。

手術は成功したのですが
一向に足が動く気配はありません。
先生は
「動かないかもしれないと言っておきましたよね?」
としきりに言われるのですが・・
「聞いてないし。
自信たっぷりに歩けるようになると言ってたし」
と思いながらも、
仕方のないこととあきらめていました。
その手術をしたことによって今度は
リハビリ病院へ。
私たちが思ったことは
確かに手術は成功したのでしょうが
肝心の義母に足を動かす意欲がなかったのだ
と思います。
そんな義母がまともにリハビリを受けるはずもなく
3か月でリハビリ病院を出ました。

帰って来てからはデイサービスとショートステイを
利用しながらの生活に。
するとある時、微熱が出るようになりました。
37度以上の発熱があると施設から
お迎えにくるようにと連絡が入ります。
何度かそのようにしてお迎えに行くうちに
インフルエンザの診断が下りました。
これが発熱の原因か・・と思いましたが、
義母のインフルエンザはB型で
熱が出ないタイプのもの。
なんだか腑に落ちない間に
床ずれを発症しました。
訪問看護の世話になっていましたが
手に負えなくなり病院へ。
恐らく入院はないと言われていたのですが
入院して手術という段取りになりました。

切り開いてもらうと
どうも床ずれのように外から起こったもの
ではなく中から菌がでてくることによって
できたような傷だとのこと。
今となっては詳しい原因はわかりませんが、
とりあえず傷を治すことに専念しましょう
となりました。
あるとき施設の方にも来ていただいて
退院後の取り扱いを協議しましたが、
これだけの傷があると元の施設では
面倒みられないと断られました。

そうこうしているうちに退院の日が
近づいてきました。
すると今度、また発熱がしばらく続きました。
医師の診断結果は肺炎だとのこと。
経過を見守るためにHCU(高度集中治療室)
に移すと言われました。
目的は肺炎を治すため。
しかし、周囲の人は肺炎になってHCUに入ったら
もう元の一般病棟に戻ることはないと
思っていました。
人口呼吸器をつながれた義母の姿を見ていると
「この歳でここまでしなければいけないのか・・」
と悲しい気持ちになりながら
「その時」を待つしかないと思って
2週間がたちました。

「肺炎が消えました!」
と興奮気味に説明する医師の声。
しかし、人工呼吸器の管が抜けません。
抜くとのどが詰まってしまうため、
3日後に喉の腫れが引かないときには
切開することになりました。
その判断を下す最終日に
病院からの連絡がありませんでした。
切開するときには連絡すると
言われていましたので。
恐る恐るHCUを訪問すると
そこには人工呼吸器が外れた義母の姿が。
「抜けたんや!よかった!」
2週間以上人工呼吸器をつけていたので
飲み込むためのリハビリが必要だと
言われていました。
でも呼吸器科の先生に診てもらうと
その必要はないとの診断。

病院の先生や看護師の方々も
ここまでの復活は予想していなかったようです。
恐るべき生命力を持った義母だったのです。
しかし、この間にも認知症は進み
娘である妻や私のことももはや
覚えていない様子です。
今は治療に使用したステロイドの副作用である
血糖値を安定させるために
インシュリンの投与を行っています。
これが服薬投与に切り替わるころには
退院することになります。

私の病気 ~自分の身体もメンテナンスが必要~

自分の身体をメンテナンス

チョコを岡山の病院へ連れて行く道中に自然と
涙がこぼれてきたのです。
GW手前の4月末のことでした。花粉症かな?
と思ってその日は無事に家に帰りました。
それ以降、なんだか舌の中心部が
ピリピリしだしました。
5月2日のお昼にカップ麺をすすっていると、
口からお汁がこぼれました。

何かおかしい!と思い、
かかりつけの医師に相談すると
「すぐに耳鼻科へ行け!」
紹介してもらった耳鼻科は休診でした。
慌てて他の病院へ行くと
待っている患者さんたちを押しのけて
診ていただきました。
下った診断は「顔面神経麻痺」でした。
すぐに大きな病院へ入院して1週間
ステロイドの点滴を受けるべし!
なんでもっと早く来んかったんや!
と叱られました。
その日は5月2日。
次の日からは病院も休みになります。

慌てて市民病院へ行って
その日に入院となりました。
一週間の入院の間は午前中に点滴を受けるくらい
でしたので午後は自由でした。
今から思えば通いでもいけたような気がしますね。

そんな時に限って何か起こるもの。
親戚の叔母がなくなりました。
親戚には隠しておこうと思いましたが、
通夜には参列できない旨を
連絡しなければなりません。
ばれました。

お葬式はたまたま病院の目の前の会館でした。
病院から礼服で出て行った人は
そう多くはないでしょう。

退院してからも半年は病院に通いました。
もう顔面神経麻痺の治療が終わるという頃、
妻からの一言が。
「お父さん、寝てるときに息止まってるよ」と。

たまたま通っていたのは耳鼻科でしたので
相談すると検査入院が必要とのこと。
2度目の入院でした。
検査は個室で行うことのことで、珍しがって
孫を連れて娘まで付き添いに。
私が管でつながれていくのをみんなが珍しそうに
見ていました。
診断結果は「無呼吸症候群」。

いまでは毎晩、マスクを着けて寝ています。

歳を重ねると
体にもいろんな変化が出てくるものですね。
うまく体と付き合っていくことを考えたいと
思います。

お別れ

チョコとティーナとの別れ

8年前に自己溶解性貧血を発症した
ティーナの様子がおかしいと思ったのは彼女が
13歳の誕生日を迎える一か月前のこと。
すぐに以前にお世話になった岡山の病院へ
連れて行きました。

また帰って来てくれることを信じて。
3日目の朝、病院から連絡が。
もうだめかもしれない。
あなたが病院に来る頃まではもたないかも?
と言われてすぐに向かいました。
私が到着したのは10時半でしたが、
それまでにティーナは心臓が2回止まったようです。
私が着くと起き上がろうとしたのです。
それから一進一退が続き、外に出ていた妻から
「もう頑張らなくていいよ」
と届いたメールを待っていたかのように
午後1時に息を引き取りました。

泣きました。
親父が亡くなった時にも泣かなかった私が
1週間は泣き通しました。
ティーナの身体をきれいにしてもらっている間、
私はティーナが車を運転する私の膝の上に乗って
ヤンキーのように窓から身を乗り出していた姿や、
私に向かって歯をむきだしにしてご飯を要求する
彼女の姿がもうここにないと思うと
たまりませんでした。
きれいにしてもらった遺体を
車の後部座席に乗せて岡山から帰る高速で
運転しながら涙があふれてきました。
家の近所に着いた時
ティーナと散歩した道を車で通りました。

今年に入って17歳まであと1か月となったチョコが
ご飯を食べなくなりました。
注射器で液状のご飯を食べさせようと
各種注射器をそろえて間もなく、
2日間下痢と嘔吐を繰り返しながら
私たちが見守る中で息を引き取りました。

私が松江に単身赴任していた時に
家族を見守ってくれたチョコ。
私たちの再婚の歴史でもあったチョコの死は
私たちにとっては特別なものでした。
最後に私に向かって
大きな口を何度も開けていました。
チョコは苦しかったのでしょうが
私には何かを伝えているように思えました。
ありがとう、チョコ。
うちへ来てくれて。
みんなを見守ってくれて。
もう早く楽になってほしいと願うばかりでした。
再び、声を上げて泣きました。
今は残った櫻子に全愛情を注ぎながら
生活しています。

死と向き合う

死と向き合う

私は小さなころから
「死」への恐怖を持っていました。
死に対する関心は自分がその時に
近づいて来るにつれて高くなってきました。

きっかけはティーナやチョコの死、
義父の死などもありますが、直接的には
船井幸雄さんの本を読んでからです。
経営コンサルタントの船井さんの本は
起業やビジネスの参考にしようと思って
読んだのですが、
「不思議」系の話が多くでてきました。
アメリカのとある研究所で臨死体験をした
とか、
イヤシロチと呼ばれる場所がいいよとか
地球ができてからのことを知っている
女性の話とか。

そんな中で「生まれ変わりの村」
という本を書いた森田健さんが
紹介されていました。
中国のある村では
「生まれ変わったことを知っている」
人たちばかりが住んでいるのだそうです。
「死ぬときは痛くはないよ」
「死んだことは本人はなかなか気がついていない」
「死んでから3日間以内は亡くなった方は
あちらからこちらを見ている」
「あちらへ行ってスープを飲むと
この世の記憶は消える」
などといったことを読みながら、
生きているということはどういうこと?
を考えました。

私は
「どこからきてどこへ行こうとしているのか?」
ひょっとしたら「魂」というのは
もともとはひとつではないのか?
と考えるようになりました。
自分が会って嫌だなと思う人も
元は同じ、ひとつの魂の中のもの。
今世ではそれぞれが部分的に分かれて
修行をしている。
こう考えると生きることや死ぬことって
怖いものではなく必然のものと
思えるようになってきたのです。
過去は変えられないという人がいます。
過去に起こった事実は変えられませんが
その意味するところは変わってくるのだと
感じています。

私たちは顕在意識のレベルで死を恐れたり、
何か嫌なことを感じたりしていますが、
潜在意識のレベルではみんな繋がっていて
気持ちとして感じるプラスやマイナスって
ないのではないか?

「死」というのは「終わり」ではなく
帰っていく儀式なのでしょう。
この世で身にまとい
ぼろ雑巾のようになった器である
身体を捨てて本来の姿に戻るために必要な
儀式なのかも?

そんなことを考えるようになってきました。

事件

窃盗事件

チョコが亡くなった悲しみに浸っている間が
ないまま、
詐欺事件(窃盗事件)に巻き込まれました。
あるとき、相談所をおとずれてきた
男の子の話ががあまりにも不憫でした。
お父さんはとっくになくなり
お母さんとおばあさん(お母さんの母)と
住んでいたが、おばあさんは施設へ。
お母さんも昨年なくなり
一人ぼっちになったので結婚したいと思ったと。
そして今住んでいる家も
月末には出ないといけないと
いったような話でした。

そして今は、昼夜と寝る暇もなく働いて
おばあちゃんは年金もないので
介護の費用を全部自分が出しているのだと。
それが本当かどうかを検証している暇もなく
緊急をようする話のように思えました。
寒いのに薄い上着だけだったので
私のダウンコートをあげました。

「君の結婚はまだあとでもいい。
とりあえず今の環境を整えるべし」と
まずは空いている自分の実家を
貸すことにしました。
長い間あけっぱなしだったので
水道管は破裂しているは
給湯器は壊れているわでその修理に
50万円くらいの出費はありました。

荷物は?と聞くと
お母さんと叔父さんのお骨と位牌
そして衣装ケースが一つ。
実家の隣に建てて以前に私たちが住んでいた家を
住めるようにして貸し出すまでに
20日間くらいはかかったでしょうか?

次はおばあさんの問題です。
いくらなんでも孫がおばあさんのすべての面倒を
見る必要はないだろうと
知り合いの市会議員に連絡して市の相談窓口へ
同行してもらいように頼みました。
そして、彼を連れて行くために乗せた車の中で
「実はおばあちゃんんの年金はあるので
生活保護は難しい」と言い出しました。
何か言ってることが違うなぁ。
市の相談員の方も過去にこの家族の生活保護の
相談にのった方のようでした。
話を聞いていくとバイトのお金は
キャバクラのお姉ちゃんにつぎ込んでいたと。
私たちが聞いていたことと
異なる話がいっぱい出てきました。

次にそのおばあさんが入居している施設の方と
お話をすることができました。
彼はおばあちゃんの汚れ物を取りに行って
自分が洗濯をして持って行っている
との話でしたし、必要な胃漏手術の
費用も自分が出しているとの話でしたが
事実は全然違っていました。
彼はおばあちゃんに会いに来たこともないし
洗濯ものを取りにくるなんてとんでもない。
逆におばあちゃんの年金を使い込んでいて
お金を入れてくれないのですと。

家を貸すのはいいけど
彼が本当に家賃を払うのか?
大きな疑問が起こってきたので
誓約書にサインをしてもらうために訪ねてみると
隣接する私の実家においていた
電子レンジがなくなっていることに
気が付きました。
そして私が彼に貸した炊飯器もないことに
気がつきました。
炊飯器をどうした?
と聞くと、
いきなり部屋のあちこちの扉を開けて
探しだしたのです。
いやいや、炊飯器はここにおいたやんな?
この家には君しかおらんのやから
なんでわからんのや?
って問いただすと、
「使わせていただきました」と。
炊飯器をお米炊く以外に何に使うん?
って聞くと、
リサイクルショップに売って
お金に換えたとのこと。
「私はお米を炊くために炊飯器を貸したんや。
勝手に売って処分してもいいとは言ってない!」
警察に届けるからというと
「警察にだけは言わんでくれ」と懇願されました。

次の日に警察へ行くと
最初は取り合ってくれませんでした。
「あんたが貸した炊飯器を彼がどう扱おうと
それは仕方ないやろ。」
と言われました。
しかし、お金に換えることはいかんやろ。
そのお金が私のところに戻ってきたのなら
いざ知らす。
それに電子レンジもないんやで。
と食い下がる私。

私は事前に近所のリサイクルショップを回って
うちの電子レンジらしきものが置いてあるのを
確認していました。
しかし、確かにそれがうちのものかどうかを
証明はできません。
保証書がなかったので
製造番号を照会できなかったのです。
そのリサイクルショップに確認したところ
彼が持ち込める日に持ち込まれていることは
確認しましたが、誰が持ち込んだのか?
は警察にしか言えないとのこと。

そんなやり取りをしている間に、
警察は現物を確認してくれたようです。
途端に警察の態度が変わりました。

「そいつは今どこにいる?」

「今日はバイトやって言ってましたから
もうすぐこの近くに来るはず」

「そこで確保するか」

といったように話がすすみ
彼は警察に確保されたのです。

そのあとは私が被害届を出したり
家の方の現場検証をするといったようなことに
なって私が帰ったのは朝の3時頃でした。
ちなみに電子レンジは持って帰りましたし
炊飯器も後ほど私の家に戻ってきました。

彼はどうなったって?
彼には別な犯行もあったようです。
以前に住んでいた部屋の隣のおじいちゃんに
支払いを肩代わりさせている金額が
200万円くらい。
しかし、
このおじいちゃんは被害届を出さなかったようです。
彼が
「絶対に返すから被害届は出さないでほしい」
と言ったので。

三ヶ月ほど刑務所にいて、起訴された彼は
執行猶予付きの判決を言い渡されて今
はどこかに住んでいるはずです。

まだ若いので

ぜひまともに生活できるようになってほしいと
思います。
世の中にはこんなひともいるという現実を
学ばせていただきました。

これから

明るい未来

私は田舎の旧家の長男として
近所に恥ずかしくない跡取りとして生きることを
両親から引き継いで生きてきました。
いや、今となっては「勝手にそう思い込んで」
生きて来たのです。
大切にしなければならないと思っていた実家ですが
今は誰も住む人も訪れる人もいません。
私がこれまで守らなければならないと
思っていたものはなくなってしまったのです。

「いい学校を出て、
いい会社に勤めれば老後は安泰だ」
という親の教えをその通りに実践してきた
つもりです。
(ひょっとして親が描いているレベルには
程遠いものだったのかも知れませんが)。
でも、結果はその通りにはなりませんでした。

私が大事にしてきたものは
少し前までの時代では
その価値はあったのでしょう。
でも、これからの時代には必要なものでしょうか?

社会生活を改善すべき大企業のモラルは
下がり切っています。
国会を見てもだれがこの国の未来を
考えているのかが不安になります。
誰もが自分の利権を守ることに必死です。

隣の人に助けを乞うにしても
本当に助けてはくれないのではないか?
と疑うことから入ってしまう
今日この頃のような気がします。

しかし
時代は確実に変わっていると感じています。

これからはお金とか家とか

形のあるのものが大切にされるのではなく
こころとこころの結びつきが大事にされる
べき時代だと思っています。
私が妻と起業した「結婚相談所マナマナ」。
マナはハワイ語で「魂」を意味する言葉だと
知って名付けました。
結婚は素晴らしい。
でも結婚することが目的ではない。
みんな幸せに生きる手段としての結婚を
してほしいと思うのです。

自分が守らなければならないと思っていたイエ。
私を慕ってくれる孫とは血筋は繋がっていません。
大切に思う犬たちとも
もちろん血は繋がっていません。
しかし、私はこの子たちや犬たちが
愛おしいのです。
血の繋がりが大切なのではなく
魂の繋がりが大切なのです。

定年まで一生懸命働き続けることが
悪いことだとは思いません。
サラリーマンでもやりがいのある
仕事は必ずあります。
その人がどう生きるかは
その人が決めたらいいことなのです。
でも、何かに困ったときに
助けを求められない社会は変えていかなければ
ならないと思います。

これまで私が後世に残そうとしていたものは
それほど大切なものではなかったのです。

私の考え方やこれまで大切にしてきた価値観を
変えていくことで、自分が大切に思う家族や孫
犬たちに本当に大切なものを
残しておいてやれるのではないか?
と思っています。

「誰かがどこかで笑うとき、
誰かがどこかで泣いている」社会ではなく、
「みんな一緒に笑える」社会を
私は後世に残していきたいのです。

これまでの私の生き方を
「反面教師」
として参考にしていただければ幸いです。

日々の出来事で私が感じることや
これまで私が知識として得てきたことを
お伝えしながら、今の時代に悩みを持っている
方々やこれから定年に向かう方々
すでに定年した方々の課題を解決することが
できたら嬉しいです。

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