幼少期 ~鶏肉を食べなくなった時~

長男として生まれる

1955年1月11日、8人兄弟の長男の息子として
4歳年上の姉を持つ長男として誕生しました。

本家待望の跡継ぎの誕生となり両親、祖母、
叔父叔母はさぞかし喜んだことと思います。
みんなの期待を一身に集め
期待通りのおとなしく良い子に育っていきました。

私には生まれたときから左の胸、つまり心臓の上に
小さなあざがあったのです。
そのあざは日増しに大きくなっていきました。
百円玉3つくらいの大きさになったころ
母は私を連れて病院通いをしてくれました。
当時の治療法はレーザーではなく
焼いた金属の板をあてて焼き切るのでした。
痛かったのでしょうね。
号泣する私をなだめるのは大変だったようです。
以降、私は白衣の人を見ると泣きだしたそうです。

保育園に通いだした頃、帰る方向を間違って
あらぬ方向へ向かって歩いていたそうです。
その時は両親の知人に気づいてもらって
無事送り届けてもらったようです。
このように間の抜けたところもあったのです。

当時の実家は田んぼがあり米を作っていました。
実家の中二階では卵からヒヨコをかえしていて
田んぼの端っこには鶏小屋がありました。
裸電球の下で育っていくヒヨコに餌をやること
親鳥が生んだ卵を取りに行くのは私の役割でした。
なかなかなついてくれない鶏でしたが
毎日会っていると親しみがわいてきたものでした。

寒い冬のある朝、
首のない鶏がつるしてあって
その頭があったはずの首から
血がしたたり落ちているのをみて、
私は恐怖におののきました。
私になついていてくれて、
毎日私が卵を取りに行っていたその鶏が
私の食卓に並ぼうとしていたのです。
私に「一寸の虫にも五分の魂」と
命を大切にすることを教えてくれた祖母が
まさかそんなことをするなんて・・
身体はこおばって、何も言えずに足早に
その場面から逃げるように立ち去ったのでした。
私が鶏肉を食べられなくなった瞬間でした。
死に対する恐怖、しかもそれが自分の親しんでいる
祖母の手によって執り行われたことで
私はいいようのない恐怖を覚えたのでした。

小学生時代 ~周囲の目を気にするよい子~

良い子を通した小学生時代

一家の期待を一身に担う私は小学校に入っても
おとなしくてよい子として評判は高かったのです。

身体が小さく病弱で下級生のころは必ず月に一度は
熱を出したりして学校を休んでいました。
そんな時には近くの友達が学校からの手紙や宿題を
届けてくれていたのを覚えています。
両親は共働きでいませんでした。
私が病気で学校を休んでいるときにはなぜか枕元に
パイナップルの缶詰がおいてありました。
学校を休んでいるときって雨が降っていることが
多かったです。(雨が降りそうだからずる休みした
わけではありませんよ!)
いまでも私は雨がしとしと降っているときは
妙に気持ちが落ち着きます。
ひょっとしたらこのころの影響なのでしょうか?

両親は共働きだったので
私はおばあちゃんっ子として育ちました。
おばあちゃんにはいろんなことわざを
教えてもらいました。
「一寸の虫にも五分の魂」や
「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」
「急がば回れ」
などが代表的なものだったと思います。

一人遊びも好きでした。
漫画本を読みふけったり
プラモデルを造ったりして遊んでいました。
漫画は週刊少年マガジンや少年サンデーなどの
週刊誌に加え、冒険王などの月刊誌では付録を
組み立てるのが好きでした。
漫画のジャンルとしてはスポ根漫画が好きでした。
巨人の星とかあしたのジョーとか。
付録づくりの延長線上だったのか
プラモデル作りも好きでした。

しかし、「好き」と「できる」は違うのです。
鉄人28号のプラモデルを造った時には
スイッチ部分をセメダインで固定してしまうなど
おっちょこちょいのところもありました。
早とちりだったのでしょう。
不器用な私でしたが何か造るのは好きでした。


夏休みの宿題では図画工作が一番苦手でした。
父親は材木問屋に勤めていて
のこぎりやとんかちを使うのはおてのもの。
私の不得意な図画工作には父親の支援は
欠かせませんでした。
日常の図画工作は下手なのに
夏休みの宿題には立派な作品を
持って行ったものです。

病弱だったこともあって
給食を残すことが多かったのです。
給食に出たパンなどを持って帰ることも
ありました。
そんな時にはよく犬がついてきて
そのまま飼うことになったこともありました。
決して私についてきたのではなく
私の残した給食のパンにつられついてきたのです。
犬の食事といえば、昔のことなので
ご飯に味噌汁をぶっかけたようなものでした。
恐らく塩分の取り過ぎになったのでしょう。
冬の寒い朝に犬小屋で亡くなっていた犬を見て、
幼少期に見た鶏の死体も思い出し
死の恐怖におののいていたものです。

恐怖といえば私には家のトイレが恐怖の源でした。
当時のトイレは家の外にある
いわゆる「ぼっとんトイレ」でした。
夜中にトイレに行くときは足がすくみましたが
それでも行かないわけにはいきません。
本当に怖いトイレでした。
その当時、夏場のテレビ放送は怪談ものが多く、
中でも「番町皿屋敷」のお菊さんの話が
私にはすごく怖かったのです。
川を流れている一枚の戸板。
それが突然ひっくり返るとそこにはお菊さんが・・
もう大声でさけびたいくらいに怖かったのです。
後は「耳なし芳一」とか「のっぺらぼう」
「口裂け女」なんてところが
私の恐怖の対象でした。
夜にトイレに入っているときに限って
そんな話を思い出すんですよね・・あぁコワっ!

人数は多くはなかったのですが
友達ともよく遊んでいました。
私は身体が小さかったのですが、足が速く
徒競走では2年生の時に2番になったくらいで
あとはすべて1等だったと記憶しています。
授業の合間の休み時間にははドッチボールや
野球をして遊んでいました。
すばしっこいことからドッチボールでは
最後まで残ることが多かったのです。

小学校の近くにある駄菓子屋さんで
お菓子を買ったりするのも好きでした。
ある時、母親の財布からお金を抜き出して
手錠のおもちゃを数十個買い占め、
母親にこっぴどく叱られて
押し入れに閉じ込められたことを覚えています。
叱られているはずなのに閉じ込められた
暗くて狭い空間がそれほど怖くはなかったのが
不思議でした。

「クソ」がつくほど真面目なところもありました。
遠足の時のおやつは決められた金額を
「定価」で超えないように
気をつかっていたのです。
私の中では基準は「定価」でした。
安く買ったということを証明できないので
「見つかったら言い訳できない」
と考えたのでしょう。
また「大人しくっていい子」という
外からの評価を崩すことを極端に恐れていました。
6年生まで毎年学級委員長を務めていたのですから。


姉とは4歳離れていて
一緒に遊んだ記憶はあまりありませんが
両親がいないときにラーメンを焚いてくれたりと
世話をしてくれました。

祖母に連れられて親戚の家を訪問しました。
夏休みには神戸の山の中にある親戚の家を訪れて
せみ取りや山歩きをしました。
しかし、姉と一緒に連れて行ってもらった記憶は
少ないのです。なぜか私だけ。

このようなところからも
「長男」を意識していたのかも知れません。
母親からは近所の人に出会ったら
必ず挨拶はするようにと口が酸っぱくなるほどに
言われていました。
「特にあの家は」と注目の家があったことも
記憶しています。いまでもうるさい家ですが・・
周りの目を気にして生活することが身についた
小学生の時期でした。

中学生時代 ~最初の壁 進路を決める~

進路を決めた学生時代

中学生になった時、私は身長が139センチで
前から2番目でした。
部活を決めないといけないときに
バスケットボールかバレーボールをやれば
背が伸びるよと言われました。
たまたまバスケットボール部に小学生時代
よく遊んだ先輩がいたため入部しました。

3年経って思いました。
バスケットボールってやれば背が伸びるのではなく
背が高くなった人がやるスポーツだって。

「買い食い」はダメだと言われてましたが
寒い冬の部活の帰り道に暖かいコロッケを買って
食べるのが好きでした。

入部した時に30人ほどいた部活のメンバーは
3年生を卒業するときは4人になっていました。
低かった背が大きく伸びることは
ありませんでしたが学校の校庭にある
松の枝に向かってジャンプを続けていました。
小学生時代にスポ根漫画で得た「根性」で
身に着けたジャンプ力を持って背の低さを
カバーしたのです。

部活の同級生が骨髄炎で亡くなったのは
中学三年生の時。正義感の強い奴でした。
私が親しくしていた数少ない友達だったので
それは衝撃的なできごとで身近に死を感じました。

部活で身体は疲れていましたが
深夜放送のラジをを聞くのが好きでした。
落語に初めて触れたのもこのころでした。
桂春団治のいかけや、
桂米朝の地獄八景などが好きでした。
深夜放送で仕入れたネタを教室で披露して
みんなを笑わせるなど、ひょうきんものでした。

試験の時には居眠りをしていて
疲れた体が「ビク」っと反応して
前の人を蹴っ飛ばしよく廊下に立たされました。
このころの机の並び方は身長順ではなく
定期的に席替えが入るのでたまたまその時に私は
後ろの方にいたのです。
居眠りをするなら前の席が絶対に安全ですね。

親、特に母親からは
「いい学校を出ていい会社に入る」ことを
いつとなく言われるようになっていました。
私は中学校時代の勉強は苦手だったのです。
それにも増して難しくなる高校の勉強についていく
自信がなかった私は工業高専を
進学先として選んだのです。

しかし私の中学校時代の学力で入れるような高専は
ありませんでした。
これが私にとっては最初の壁だったかも。
私は神戸市立工業高等専門学校を見つけました。
国立高専の多くが入試科目が5教科なのに対して
ここは2教科!数学と英語だけだったのです。
「やった!」と思ったのもつかのま
先生からは「お前の英語と数学の成績では無理!」
と言われてしまったのです。
それでも
「受けるだけでも受けさせて!」と懇願して
先生も「ま、一発勝負やからな」
と了承してくれました。

当時の兵庫県の普通高校への入試は「兵庫方式」と
呼ばれていて内申書重視でした。
入試の時だけ一生懸命勉強してもだめですよ!
というものでした。

そんな中で高専を目指した私がとった勉強方法は、
とにかく「過去問」を解くことでした。
他にも高専を目指す同級生もいて、
彼には先生がつきっきりで指導していました。
先生は私が受かるなどとは夢にも思っていないので、
そんな私に時間を割くよりは受かる可能性の高い
もう一人の方に集中して指導していました。

いざ合格発表を見ると私が受かってその子は落ちてました。
合格発表から帰って先生に報告すると、
「運やなぁ」とひとこと。
帰宅して母親に伝えると、
「あんた、ばかにされてるやん!」
って言われました。
私はとにかく、嫌だった普通高校や大学へ
行かなくてもよくなった安ど感でいっぱいでした。

私が中学生になったころ
祖母の認知症が進んで村中を徘徊したり
家の中でも姉の部屋に突然入っていってわめいたり
その行動の予測がつかなくなってきました。
「大切な長男が勉強できないとだめだから」
と父親が勤める材木問屋が提携している
ハウスメーカーのプレハブ勉強部屋を
建ててくれました。
それを知った友達がよく夜中にこっそり
遊びに来たものです。

私の音楽との出会いはそんなプレハブの中で聞いていた
深夜放送ラジをの影響だったと思います。
最初に聞いたのが
PPM(ピーター・ポール&マリー)。
次がブラザースフォアと
アメリカのフォークソングにはまっていました。
ジョーン・バエズから日本の岡林信康
高石ともやと変遷しました。
ギターを買ったのもこの時代でした。
フォークギターではなくクラシックギターで
ガット弦デビューしました。
カルカッシギター教則本や
タルレガギター教則本などで独習。
しかし、「アルハンブラ宮殿の思い出」や
「禁じられた遊び」で運指がついていかず
断念してしまったのです。
それでも音楽を聴く習慣は続いていきました。

また、初恋と呼んでいいのもこの時代でしたね。
小学校の時は恐らく、
一年生の担任の先生を好きになっていたと思いますが
恋心とまではいかなかったと思います。

中学一年生で入った時に
どちらかというとぽっちゃり系の彼女に一目ぼれ。
自分から言い出したわけではないのですが
なんとなく周りに感づいてもらって
くっつけられた感じでした。
でもお互いに「イヤ」ではなかったと思いますね。
(いまだに私が勘違いしているのかも知れません)
家に遊びに来てもらったりしましたが
卒業とともに消えていったなんだか淡い思い出です。

高専時代 ~悩む 青春時代~

バスケットボールに明け暮れた学生時代

高専までは電車通学でした。
姫路方面から乗って来る同級生と一緒に
通学していました。
このころには私のギャグも
手慣れたものになっていました。
おりしもよど号のハイジャック事件があった時に
友達と二人で
「この電車をのっとって北朝鮮へ行こうか?」
などというギャグを言い合っていると
目の前で座っていたおじさんに
「お前ら、ヨシモト行けや!」って
大笑いしながら言われたことは嬉しかったです。
見ていてもらえた
聞いていてもらえたというのが
自分の存在感につながったのでしょう。

通学に使っていた電車の窓からは淡路島がきれいに
見えていました。
明石からフェリーが出ていましたし
そのフェリーで通学している同級生もいました。
ある気持ちの良い天気の日に
いつも一緒の友達と通学途中でしたがふと電車を
降りて淡路島へ。いわゆるサボタージュでした。
すると淡路で見たことのある人に出会いました。
学校の教授です。
お互いにさぼっていたのですね。楽しかったです。

私は高専に入っても
バスケットボールは続けました。
思い出にあるのは、3年生の時に相手チームの
188センチあるセンターのシュートをブロック
したことです。
その子は中学校の全国大会で準優勝したときの
センターだったのでなおさらです。
中学校時代に毎日ジャンプの練習をしていた賜物。

前後しますが一年生の後期に入った時
(高専は前期・後期の区分けでした)
に担任から呼び出されました。
部活を頑張っているからといって
成績が悪かったら進級できひんぞ!と。
私は成績が悪いのが部活のせいだと言われたのに
腹が立ちました。
私の成績が悪いのは勉強してないからだと。
それを証明するためには勉強するしかないと
頑張って勉強し
後期の期末テストではクラスで10番以内に。
「やったらできるんやなぁ」と言われた時には
「わかったか!」といった気分になったのです。

このことがきっかけで
私は勉強することが楽しくなったのです。
最初の目的は試験でいい成績を取ること
だったのですが、次第に勉強
特に数学が面白くなってきました。
中学校では大嫌いな科目でしたが
高木貞二さんの「解析概論」や寺澤寛一さんの
「応用数学概論」を読みました。
ファインマン物理学も面白かったです。
現代数学という月刊誌に出会い
今は亡き京都大学の小針明宏さんや森毅さんに
出会ったのも強烈な印象でした。

いい思い出だけではありません。
この年は大阪で万博が開催されました。
そこへ行くときに
みんなでキセル乗車をしたことがばれてしまい
謹慎処分となりました。
これも親に叱られたなぁ。
なんだか社会に反発しているような
意味のない正義感も覚えたような
変な感覚であったように思います。

部活にもいそしんでいましたので
私が本気で試験勉強するのは試験前一週間です。
そんなことを知っている級友たちは
試験前一週間になると私にわからないところを
聞いてくるようになりました。

試験中に後ろからつっつかれて答案用紙を
見せろと言われたこともありました。
あまりにしつこいので見せてやると
そいつが大きな声で
「汚い字やなぁ!読まれへん!」
と教室中に響き渡る声で。
カンニングがばれてしまいました。

先生からはカンニングというのは
見たやつだけが悪いのではない。
見せたやつも悪いんや!と叱られました。
しかし、私にはそのときに私の答案を見せろと
言ったやつの言葉が忘れられません。
「俺ら、カンニングしても欠点やし。
100点取ってたら叱られてもしかたないけどなぁ」
なんだかすごく納得しました。
やってはいけないことかも知れないけれど
程度の問題ってこともあるよなぁって。
もっとも、その程度の思いなら
カンニングなんてしなければいいのに
とも思いましたが・・

バスケットボール部とバレーボール部は
仲良かったです。
体育館で隣どおしで練習していましたから。
あるとき
バレーボール部の副キャプテンが
学校に来なくなりました。
先生がそいつのロッカーをこじ開けると
遺書が出てきました。

彼の遺体が見つかったのは
春になって雪が解けた山からでした。
遺書の中身を見たわけではありませんが、
人間は自然に対して悪いことばかりしている。
そんな人間が一人でも少なくなればいい
といったような内容だったようです。
公害が日本の社会問題になってたときでした。

部活の一年後輩の機械工学科の子も
4年生になったときに学校をやめました。
このまま5年生を卒業すると
多分大企業に就職するだろう。
大企業は自然に悪いことばかりしている。
そんな会社に入りたくないと言って
学校をやめてペンキ屋になったようです。

私は悩みました。
このまま卒業して会社へ入っていいのか?
でもそれは私の両親の望むところなのです。
それが悪いことなのか・・
思えばこれが2番目の壁でしょうか?

よく本を読みました。
ドストエフスキー、ツルゲーネフ、高野悦子、
樺美智子、奥浩平、芥川龍之介、太宰治など。
お酒を飲み、たばこも吸いました。
そして、いつしか本を読まなくなりました。
あるとき、私の口から出る言葉が
その本の主人公の言葉とかぶっているのです。
いま、これを言っているのは自分か?
ひょっとすると自分と違う「誰か」の言葉では?
怖くなって本を読むのをやめてしまったのです。

自分の中で答えが出ないまま
5年生になって就職活動へ。
進学の道もありました。大学編入です。
東京工業大学、東京農工大が編入を
それぞれ一名受け入れてくれるとのこと。
私は東工大を目指そうかとも思いましたが、
家庭の環境(お金ですね)のことを考えると
これ以上両親に苦労を掛けるわけにはいかない
とも考え、悩みました。

そうこうしているうちに、
私よりも成績のいいやつが先に申し込んで
しまったので私は申し込むのをあきらめました。
その彼は今年から東工大の学長になっています。

私が選んだ会社は松下電器産業株式会社でした。
理由は松下幸之助という人物を
思い起こさせるから。
松下幸之助という人物は
私の父親が好きだったので覚えていたのです。

松下電器からの求人は4人。
それに対して5人が応募しました。
落ちるとしたらオレかおまえやなぁと
言い合った相手は陸上部の奴でした。
それまではかいもく部活には行っていないのに、
足しげくグラウンドへ行っているのです。
どうした?と聞くと、
陸上部が肌の色白いのはおかしいやろ?と。

当時の松下電器が採用するのは
1.頭のいい人間
2.スポーツマン
3.何か一芸に秀でたやつ
といったようなことがささやかれていました。

私がいったい、なんで受かったのか・・
いまでも謎ですが・・・
結局5人とも受かりました。
私は誓いました。
志半ばでこの世を去った
バレーボール部の副キャプテンと
後一年を残して学校を去った後輩に。
松下電器が悪いことをしているのなら
その中から変えてやろうと。

 

高専の時は様々なジャンルの音楽に触れました。
アメリカのフォークから日本のフォークへ
そしてイギリスへ。

青春時代の私はあまのじゃくだったのでしょうか、
巷で流行っているものに迎合するのがいやで
自分で気に入ったものを選びたかったのです。
レコード屋さんで目に留まったレコードを
実際に聞かせてもらって気に入ったら購入する
というようなスタイルでした。
そうやって買ったのが
イギリスのバート・ヤンシュ率いるペンタングル
そして絞首刑を免れた人をテーマにした
フェアポートコンベンション。
なんでも昔のイギリスでは絞首刑を3回
失敗したら無罪になったそうです。
実際にそうなった人のストーリーを
歌にしたものでした。

このようにしてレコード盤を探していて
出会ったのが廉価版のジャズでした。
確か、LPが2500円くらいしていた時でしたが
1300円くらいの値段でジャズのLPが
購入できたのです。
出会ったのはMJQ、マイルスデイビス、
ディジーガレスピー、マルウォルドロン、
ハービーハンコックなど。
ジャズとロックの区別がつかず、
カルロスサンタナや
マハビシヌ・ジョンマクラフリン
ラビ・シヤンカールなどと流れていきました。
しかし、だんだんと重い音楽に疲れ
日本のポップスも少し聞きました。
小椋佳と出会ったのもこのころです。

これもきっかけは覚えていませんが、
ニッティーグリッティーダートバンド(NGDB)の
コンサートにひとりで行ったのは19歳の時でした。
ブルーグラスというジャンルでした。
このバンドはギターを弾いていた人が
つぎはバンジョーを、そのつぎには
フラットマンドリンをといった具合に
曲ごとで担当する楽器が変わります。
金ダライを伏せたものに棒を立て、
ひもを張ってベースにしたものや
金属製の洗濯板をかき鳴らすといった楽器の使い方
(ジャグバンドでした)にも驚いたものでした。

このNGDBに魅かれたのはそのバンド名でした。
ニッティーもグリッティーもダートも
汚いとかウジがわいたとか汚れたとかいった意味。
彼らによれば、そんな風に人が
「臭いものには蓋をしろ!」
と隠してしまう中にこそ「真実」があるのだと。
この意味に私は痛く感動したのでした。

思い出しました。芥川の「河童」
人間が河童の世界に入っていくのですが
河童の世界の善悪は人間の世界と反対なのです。
つまり、人間の世界で善とされていることが
河童の世界では悪。
人間の世界で悪とされていることが
河童の世界では善なのです。
それでも物語は自然に流れていきます。
その時の驚愕に等しく、
心が震えるものを感じたのがNGDBとの出会い。
そしてこのNGDBに匹敵する日本のバンドは
高石ともやとザ・ナターシャセブンだと
彼らのレコード評に書いてありました。
この時にはまだナターシャセブンと出会うすべを
私は知りませんでした。

ジャニスジョプリンや浅川マキに出会ったのも
このころだったかなぁ。

「失うなにもない それが自由
価値ある何もないボビーが歌うブルースと相棒と
それさえあれば それだけで最高さ
明日なんかいらないよ昨日が戻るなら
ボビーの身体抱いてた昨日が」

ジャニスジョプリンのミーアンドボビーマギー。
自由ってそんなにいいものではないんだと
思いました。

浅川マキの不思議な橋。
「不思議な橋が この街にある
渡った人は戻れない」

大人になるための橋をわたったら
もう戻ってこれないよという意味だったのですね。
大人になるってそんなに大変なことなのかと
なんとなくやるせなさを感じていた私の青春時代。

祖母が死を迎えたのもこのころでした。
中学生のころから認知症を発症したのち
寝たきりになった祖母を介護していたのは母でした。
祖母には8人の子供がいましたが、
母が泊まりにといっても二晩泊めてくれるところは
ありませんでした。

その親戚たちがお葬式の日に
母に詰め寄っている声が聞こえてきたのです。
「あんたがお医者の先生に頼んで
薬を注射してもろうたんと違うんか!?」
自分の母親を一度も見舞ったことがない
お前らが何言うねん!
って私の心は怒りで震えていました。

後で母に聞いたら、
「ええねん。おばあちゃんは
最後に自分の子供たちではなく、
私の手を握って”ありがとう”って言ってくれた。
私はその一言ですべて許せる」と。
母の苦労を無駄にしてはいけないと思いました。

後に西陣の往診専門のお医者様からも
同じような話を聞いたことがあります。
最後を託すのは誰か?
このお医者さんは患者さんの逝くときが
わかるのだそうです。
もうそろそろ親族を呼んでくださいと言われて
集まった親族たち。
久々に来た子供たちの手を払いのけて、
最後まで世話になった息子の嫁さんの手を握る
おばあちゃんの姿が祖母と重なりました。

高専を卒業するという年の2月。
姉は山口の人と結婚しました。
母はなぜか姉の結婚には反対でした。
山口の田舎の百姓の家に嫁ぐなんて・・
しかも相手は長男だって!
どうも母が嫌な条件を全部そろえていたようです。

私の眼には優しそうにうつる「お兄さん」
でしたんで、母には
「いいやんか。二人が好きで結婚するんやから」
というと
「あんたにはわからへん!」
と一蹴されました。

その理由がわかったような気がしたのは
還暦も過ぎて母が認知症を発症してからでした。
恐らく自分の青春時代と姉の結婚を
重ね合わせたのだろうと思います。
確証はありませんが、
自分が味わった悲哀を姉には
味あわせたくなかったのでしょう。

姉の結婚式に出てもらった私の友人と
山口で姉の結婚式に出席したのを皮切りに
四国を旅しました。卒業旅行ですね。
山口から広島へ、そこから船で四国へ渡り
ユースホステルに泊まって
四国の外側を一周しました。

私はユースホステルで出会った女性に
恋をしました。
埼玉から友達と来ていた年上の女性でした。
のちに会社の独身寮に入ってからは
小銭をためてマメに寮の公衆電話から電話したり
休みの日には東京まで会いにいったりしました。

あるとき、
会いに行っても約束の場所には
来てくれませんでした。
恐らく彼女には彼氏さんがいたんでしょうね。
帰りの新幹線が大阪に到着するまで
非常に長い時間がかかったような気がします。
寮監に門限を遅れるからと電話を入れると
「また飲んどるんか!門は閉めるぞ!」
と言われて、
「閉めていいで。門をけ破って入ったる!」
それでも寮監は待っていてくれました。
私の失恋はこんな風でした。