新入社員時代 ~バスケットボールと酒とフィールドフォーク~

フィールドフォークとの出会い

昭和50年の4月11日。
世間は第二次オイルショックで不況の時に
私は松下電器産業株式会社に入社しました。
入社して言われた言葉。
「君、5年生の時は遊んだなぁ」
「ハイ、勉強していませんでした。」

こうして一ヶ月間の社員研修所での
新入社員研修が始まりました。
通常は一年間は本社預けで実習が行われますが
本社はお金がないので1週間の本社研修の後は
事業部の負担で実習が進められることが
告げられました。
そして本社研修の間
必要な荷物や資料を持って来るのは
風呂敷包みでとの指示が出されました。
いきなり私は反抗しました。
「風呂敷は持っていません!」
持って行かなかったのは私だけでした。
今から思えばこの時に
私は目をつけられていたんでしょうね。

研修を担当するのは
課長代理になりたての方だったと思います。
テレビ事業部の方でした。
世の中の人の生活を家電製品で楽にするのが
松下電器の使命だと教わりました。
私の質問。
「テレビが広がったおかげで一億総白痴化と
呼ばれていることに責任は感じないか?」
指導員の言葉。
「それは使う方の問題だ」

「どう使われるかにも責任を持つべきだ」
議論は続きますが
他の人はうっとおしそうでした。

指導員
「松下電器は利益を追求する会社ではない!」

「ホンマに?」

他の人の配属面談は一回でしたが
私には2度目の面談がありました。

面談員
「君は特機営業どうや?
一契約取ったら億単位の仕事や。
やりがいあるで!」

「営業ですか。悪くはないのですが
私もせっかく工業高専を出ているので
一度は技術を担当してみたい。
それで役に立たないと思われたなら
いつでも営業職を受けます。」
と言って、
中央研究所をはじめ、
松下電器の半分以上の事業場を挙げたそうです。
私にはそれがすべてでしたが
まだ半分だったと知ってやはりデカイ会社だ
と感じました。

落ちるとしたらオレかお前かだと言い合った相手は
神戸に住んでいたので
大阪まで実家から通うつもりでいました。
そいつの驚きの声が講堂中に響き渡ったのは
配属の辞令をもらったときでした。
「九州ぅ!?」と彼の声が・・
そうです。彼の配属先は九州特機営業所でした。
恐らく、私が特機営業を断ったので
彼に矛先が向いたのでしょう。

私は大阪の事業部でした。精密キャパシタ事業部。
私には聞いたことがない名前の事業部が
私の配属先でした。
これって本当に松下電器?先輩に聞いてみると
松下電器の中でも小さい方に属する事業部でした。
フィルムコンデンサという部品の製造販売を担当
する事業部で、豊中が母体で工場は島根県の松江。

松下電器は自社で作る製品の部品も自前で作って
しまえという考え方だったのです。
小さな事業部なので利益が出なければ
すぐに潰されてしまう運命にあると
伝えられました。
本社の講堂から配属先の事業部へ移動するのは
黒塗りのクラウンでした。
事業部長車だったのです。
車の中で人事担当課長から言われました。
「もう君がこんな車に乗ることはないやろな」
そうです、
私が事業部長にまで出世することはないと言われた
ことに気が付いたのは定年まじかの時でした。
すでに入社した時から
将来の出世は決まっていたのかも知れません。

そうこうしているうちに実習が幕を開けました。
まず販売実習でその次が製造実習
そして実際の配属は一年後といわれました。

販売実習は大阪は玉造の
ナショナルショップ店です。
あるとき、男の人が「ちっちゃい電池くれや」
とやってきました。
「何に使われるんですか?」
「盗聴器や!」

あるとき、ビッグと呼ばれていた冷蔵庫の注文を
受けて届けた家のご主人が
「大きい冷蔵庫やなぁ、
こんなんいらんわ。持って帰ってくれ!」
なんとかなだめておいて帰りました。

蛍光灯を買ってくれた
一人暮らしのおばあちゃんの家へ届けると、
「蛍光灯の球を付け替えてくれへんか?」
「わかりました」
と取り付けて古い電球を持って帰ろうとすると
おばあちゃんがこれでお茶でも飲んで
と差し出してくれた手には5百円玉が・・
受け取れずに、お礼の言葉だけ絞り出して
涙を流しながら走って帰ったのを覚えています。
なんで涙がでてきたのでしょう?

その時に思い出したのが
奥浩平「青春の墓標」の詩でした。
「誰かがどこかで笑うとき、
誰かがどこかで泣いている。
みんな一緒には笑えないものか」

大きな冷蔵庫を自分で頼んでおいて
持って帰れというお金持ちとはうって変わって
つつましい生活をしながらも
優しいこころを持ったおばあちゃんがいる。
なんでこんなに差があるんだろう?
恐らくはそんな考えが頭をよぎったのだと
思います。

製造実習は島根県の江津市というところにある
工場でした。
ラインのおばちゃん方には
親切にしていただきました。
ここには私と一緒に配属になった
もう一人の人と二人で実習していました。
その人は北海道の大学を出た技術者の方です。

宿のおばちゃんは「たんとご飯食べてや」と
何度もお代わりを促してくれます。
下着や作業服までも洗濯してくれていました。
お母さん替わりですね。

大学での同期の人は夜は電気通信学会の
論文誌を読みながら22時には就寝します。
私は漫画週刊誌を読みながら
彼が就寝したあとは
向かいの土建屋さんたちの部屋で
一緒に飲んでいました。
その土建屋さんの言葉は今でも覚えています。

「人間には2種類あってな。
ひとつは親分肌の人、もうひとつは参謀肌の人や。
自分がどっちかよう考えよぉ」
と言われた言葉が
その後もずうっと頭の中に残ってました。
考えた結果、私は参謀肌だとの結論を得ました。

そのあとは松江松下の本社がある松江で実習。
ここでは最初っから上司とぶつかりました。
私の歓迎会の席で殴り合いになりました。
その上司から殴られたので
私も殴り返そうとしたらみんなに止められました。
「なんでおれだけ殴られなあかんねん!」
その上司には長い間反発していましたが
本音で議論できる間柄にはなったと思います。
今ではいい思い出です。

出雲地域で職域対抗のバスケットボール部にも
入れていただきました。
優勝すれば全国大会で代々木第二体育館へ行ける
ことになるその日の試合は朝から三試合でした。
一試合目で左足をねん挫し
2試合目で右足をねん挫。
それでも決勝へコマを進め
このノーマークシュートを決めたら代々木!
っていうランニングシュートを
両方ねん挫している足ではジャンプできずに
外して敗退。
私のミスで負けたことを悔やんで号泣しました。
島根の人は優しかったです。

会社でも地域の大会に出ていました。
あるとき審判の方から
「松江工業高校出身ですか?」と聞かれて
「違います!」と答えたときに
自然に胸を張っていたのを覚えています。
なにせ松江工業というとインターハイの常連校
ですからそこの出身と思われることは
私にとっては非常に光栄なことでした。

実習から大阪へ帰ると本格的な寮生活です。
古川橋の寮で4人暮らしでした。
部屋を入ると両脇に2段ベッドがあって
奥に机が2個づつ並んでます。
それぞれ異なる事業部の人ばかりなので
出社する時間はまちまちですが、
たぶん私が一番遠かったと思います。

同じ部屋の中の先輩で
ラジオ・録音機事業部の人は
金曜日の夜になるとベッドの中でクスクスと
笑ってます。
KBS京都の番組で諸口あきらさんが
パーソナリティーの番組でした。
その人から聞いた、宵々山コンサート。
京都の円山公園で毎年夏に行われる
ナターシャセブンのコンサートでした。
宵山の前の日に行われるので
そう呼ばれていました。
ようやくNGDBに匹敵するといわれていた
ナターシャセブンに出会うことができるのです。
「行くか?」と言われて
すぐに「行きます!」と返事。

行くと開場までの間がミニコンサートです。
ギターを奏でる人、バンジョーを奏でる人。
会場は石の椅子なのでおしりが痛かったです。
なにせ、午後2時くらいに開場して
終わるのが夜の8時過ぎくらいでした。

高橋竹山さんの三味線と城田じゅんじさんの
バンジョーの小気味よい掛け合いが
すごく印象的でした。
それ以降、
フィールドフォークにはまっていきました。
春は春昼下がりコンサート、夏は宵々山コンサート
秋は秋昼下がりコンサート、
冬は先斗町の歌舞練場で年忘れコンサート。
全部行きました。

ある年の夏、中津川の「はなの湖」で
ピクニックコンサートが開催されることに。
杉田次郎さんやダウンタウンブギバンドさんと
一緒に開催されました。

友人と一緒に私の車で行きました。
サニー1400GXエクセレント。
クーラーなし、ラジオのみでした。
前夜はあちこちのテントからギターの音や
バンジョーの音が聞こえます。
私もギターを抱えて各テントを回ってみんなに
声をかけて30人くらいの輪になって歌いました。
最初に私が歌ったのは
「孤独のマラソンランナー」。
そこからあとはみんなの進行に任せました。
気持ちよかったなあ。

そうそう
私の車は近所の家の庭に置かせていただきました。
お酒をお礼に買って行って。
今から思えば一番楽しかった時代だったかな?

お酒をよく飲んだのもこのころですね。
先輩たちと連れ立って
大阪の京橋でよく飲んだものです。
先輩たちは私にお金を出させてくれませんでした。
「お前に後輩ができたら同じように出してやれよ!
それでええんや!」
男前な先輩でした。
帰りの京阪電車で
なぜその人が特急電車にのったのか
よくわかりません。
その人は大和田の寮だったはずなのですが・・
酔った勢いで乗ったのでしょう。
そうです、京阪特急は京橋を出ると
京都四条まで停まりません。
結局その先輩は京阪電車の車庫で
夜を明かしたようです。

こんな風に飲み歩く先輩たちの仲間に
入れてもらっていた先輩二人に混じって
「三バカトリオ」と呼ばれてました。
ある時、営業課長から実験室に電話が。
「今お客さんを接待しているけど、
しらけとるんや。
お前ら来てくれへんか?」と。
二つ返事で三人でかけつけ盛り上げる
と言ったこともしょっちゅうありました。

お酒の失敗もよくありました。
上司の家に招かれて行って
朝まで議論を吹っかけてました。
次の日はもちろん仕事です。
京橋で京阪からJRに乗り換える間、吐いてました。
会社に着くと
実験室の恒温槽の裏でニッパーとペンチを
持ったまま寝てました。
遠くから見ると仕事をしているように
見えるだろうと。
それでもつらく健康管理室へ休みに行きました。
健康管理室に行くとすぐに上司に伝わります。
午後から職場へ戻ると上司から一言。
「君は眠れていいね・・」

この上司とは私が行った実験の報告書で
よく議論したのを覚えています。
あるとき、
長い間議論しているとふと気が付きました。
「課長、課長がおっしゃっていることは、
最初に私が言っていたことではないですか?」
すると課長も、
「今、君が言っていることは
俺が最初に言っていたことだぞ!」と。
結局、どちらでもよかったのか・・
正解ってないんだと思いました。

中堅社員時代

実験

私が担当していた仕事は実験業務でした。
お客様はセットの設計者
例えばテレビの設計をする人たちでした。
その人たちがからの「こんな条件で使えるか?」
というような問い合わせに対して
私が実際に実験を行って
使用可否を判断するものでした。
毎日毎日、初期性能を測定し試験後のデータと
比べて見て大丈夫かどうかを
判断するというもの。

どうやって大丈夫と判断するのか?
それは私ではなく上司の役割でした。
しかし、それまでの判断レベルは
「これなら100個中に一個くらいは
不具合が出る?」
などという極めて上司の感性と経験に頼る
判断でした。
そのやり方に疑問を感じた私は
田口玄一さんの実験計画法を学んで
統計的な判断をする手法を導入しました。
新しいものを導入しようとすると反発があります。
「そんなことせんでも俺が判断したる!」
というような先輩や上司が多かったのです。
「そしたらあんたが明日死んだら
誰が判断するんですか?だれでも判断できるように
せんといかんのと違いますか!」
私の正義感に火をつけてくれた上司に感謝です。

しかし、そこはやはりサラリーマンです。
上司からの業務命令には従わないといけません。
それは違うと思って自分なりのやり方を検証する
ために私は土日を使いました。
休日に会社へ出て自分のやり方で検証し、
私のやり方の方がより正確に判断できるか
データを集めて上司に報告しました。
それ以降私がやりたいということに対して
上司が文句を挟むことはなくなりました。

一日の多くの時間を測定に取られていたので
その測定を自動化することに取り組みました。
もう上司も反対はしません。
費用も掛かる案件でしたが
よく飲みに行っていた経理部長は私を
応援してくれていました。
ま、飲み仲間といった感じですが。
私の持っていく決済書類は内容を見ずに
ハンコを押してくれていましたので
この設備投資の決済もOK!
ただ・・話が長い!
「坂田君、人間っていうのはなぁ・・」
となると30分はかかります。
最後は私が経理部長に手を添えて
ハンコを押していました。
難しい面もありましたが
この自動計測のシステムをなんとか
完成することができ、それ以降の仕事の効率化に
役に立ったと自負しています。

私は基本的に指示されるのが
嫌いなのかも知れません。
指示されたことをやると
その仕事を評価するのは指示した人ですもんね。
自分でやろうと思ったことなら
それを評価するのは自分です。
自然と自分にとって「ラク」な仕事のやり方を
身に着けていったのかも知れません。

お客様との間で信頼関係を結ぶ基礎を
身に着けたのはこの中堅社員時代でした。
あるとき、お客様から電話が入りました。
なかなか話しづらそうでしたが
私たちと競合するメーカーのお話だったのです。
その競合メーカーの商品が不具合を出したのです。
そしてその対策書を提出してきたのだけれども
その内容があっているかどうか判断してほしい
というものでした。
ある意味、これはチャンス!
と思えるような依頼内容でしたが
その対策書を見てみると弊社でも起こりうるような
不具合が記載されていました。

競合メーカーの書類を見せるなど
私に連絡してきた人は恐らく
上司には内緒で相談してきたのでしょうから
私も上司には内緒で回答しました。
「大丈夫ですよ。この対策書は信頼できます。
弊社でも起こりうる内容です。」
と回答しました。
お問い合わせいただいたその方とはそれ以降
仲良くさせていただいて
長い間取引をしていただきました。

いろんな人との出会いがありました。
あるカメラメーカーの技術部長さんと話をしている
とこれからは週刊誌も写真がメインになると予測。
まだフライデーなんかがない時です。
その部長さんの予想はぴたりと当たりました。
私はそのカメラメーカーのストロボに使用する
コンデンサの使用条件を確認した結果を
持っていきました。
私の結果は
「御社の使用条件に合いません。
恐らく不具合が出ます」でした。
その部長さんは
「10個中で一個くらいの不良なら大丈夫。
そのために品管がある!」と。
難しいという私の意見を聞かずに
サンプル提出を要求されました。
先方での検討結果は10個中3個の不良が出て
やはり採用不可に。
だから言ったのに・・

対策案はありましたが
価格が折り合いつくとは思えませんでした。
その部長さんとはそれっきりでしたが
なんとも世の中には豪傑がいるもんだと
感心しました。
寒い冬の日に訪問したのですが
その部長さんの足元は裸足にサンダル履きでした。

その経験を活かし
ストロボメーカーの技術者とコンタクトしました。
技術者の方はなかなか自分の弱点を
さらけ出しません。
簡単にノウハウを公開したりはしないのです。
私は実験回路を組むために必要な情報を
収集するために訪問しました。
その時に学んだことは、
「教えてくれ」だけでは決して教えてくれません。
自分ではここまで勉強したけど
ここから先がわからない。
あなたならわかるはずだから教えてほしい
とお願いするとやおら語りだすのです。
それでも語ってくれない技術者は
よほどガードが堅いか、
本当に知らないのでしょう。
技術屋さんと相対するときは
本音でぶつかった方がいいことを知りました。

サムソンがSONYさんのプラズマテレビを
OEM生産していた時期がありました。
SONYさんのプラズマテレビで
他社のフィルムコンデンサが
不具合を出したのです。
SONYさんからの指示でサムソンへ。
技術者とディスカッションして
今回の不具合の発生原因やその対策などを示し
弊社の商品なら大丈夫とアピールしてきました。
しかし、サムソンから注文が入る気配が
一向にありません。
SONYさんに聞くと
サムソンの対策は終わったと報告があったとか。
私がサムソンに伝えた内容
はそのまま韓国のフィルムコンデンサメーカーに
伝わりそこで対策した品物が採用されたようです。
私が韓国メーカーを嫌いになった理由の一つです。

私が10年間ほど組合役員の活動を
していたころの話です。
最後の2年間は支部執行委員長だったので
ほとんど仕事はできませんでした。
松下電器の労使関係には
労働組合の経営参加制度というものがあります。
毎月開催される労使協議会と
経営委員会というもの。
労使協議会は執行部と会社幹部の部長以上の方が
出席するものです。
経営委員会は支部三役
(委員長と副委員長、書記長)および
会社側は事業部長と人事部長だけで
議事録は取りません。
そんな機会があるものですから
課長さんや部長さん方からも
私に期待される向きが多くありました。
「こんどの経営委員会で
事業部長にこれを伝えておいてくれへんか?」
そんな要請もくるようになりました。
その都度、
「あんたも経営幹部なら直接事業部長に言えよ!」
と追い返していましたが。

組合の委員長としての役割が終わると
企画職能に配属されました。
よくある道筋です。
経営委員会では結構会社幹部に提言をすることも
多々あります。
そしてその役割が終わると会社側からは
「あれだけ言ってたんやから
あんたのお手並み拝見!」
と言いたげな配置をしてくるものです。

私は企画課長を命ぜられました。
事業部長の意を対して具体的なアクションプランを
作ったりして実際の企画に落とし込む仕事です。
夜中に資料を作って
次の日の朝に事業部長の意向を確認し
昼間は日常のルーチンワークをして
また夜中に企画書類を修正して
次の日の朝に確認する。
経営者ってせっかちなんです。
朝令暮改は当たりまえ。
指示した次の日にはなんらかの報告を
求められました。

経営者にはけん制もしておかないといけません。
「坂田君、
社内報の新年号の年頭所感を書いといてくれるか」
即座に断りました。
それはあんたの仕事でしょ!と思って
「社内報の年頭所感は
事業部長の思いを書くものです。
私が文章に仕上げますから
事業部長が伝えたい言葉を教えてください!」と。
二度と私に記事執筆依頼は来なくなりました。

サラリーマンって
イヤな仕事の代名詞のように言われます。
でもそれはそれでやりがいのある仕事だと思ってます。
「歯車になるのは嫌だ!」ってよく言いますよね。
でも歯車も大切なのです。
歯車が壊れたらロケットは飛びません。
(ん?歯車なんてロケットに使われてたっけ?)

壊れたら取り換えられる運命にあるっていうのは
事実。壊れたら直さなきゃ。
サラリーマンは自分の意思で仕事ができないから
やりがいがないともいわれます。
私はやりがいは自分で見つけるものだと思います。
それができない会社なら辞めればいいのです。
毎日毎日トイレ掃除をしてくれているおばちゃんの
仕事って大切な仕事だと思います。
それぞれにやりがいを感じられるかどうかが
大事なことだと思うのです。

なんのためにその会社にいるのか?
私が勤めていた会社では
毎年1月に経営方針発表会っていうのがありました。
あるとき、会長からこんな言葉が。
「お客様第一という言葉を
百万遍唱えたからといってお客様第一を
実践したことにはなりません!」
いつになく、真剣な口調で怒りました。
何かあったんでしょうね。

そうです。
大切なことはその会社に経営理念があるかどうか。
その経営理念に自分のこころが感動するかどうか。
私が勤めていた会社の経営理念はこんなでした。
「産業人たるの本分に徹し、
社会生活の改善と向上を図り、
世界文化の進展に寄与せんことを期す」
この綱領に示された内容に基づいて
判断するのです。

上司の判断が常に正しいわけではありません。
自分が判断に迷ったら上司へ確認するだけではなく、
経営理念に照らし合わせて判断すればいいのです。
どれだけ上司に理不尽な指示を受けても
それが経営理念に反するものなら
その指示を聞く必要はありません。
「経営理念に照らし合わせて考えると
それはやるべきことなのでしょうか?」
自身が納得できなければ
それは徹底的に上司と議論すればいいのです。

ベテラン時代

世界を渡り歩いた中堅時代

企画の仕事をしていたのは主事の時代でした。
そのうち課長職に昇進し、
一つの課を任されることになりました。
それはお客様をサポートする部隊で
私が中堅時代にやっていた仕事でした。

あるとき、台湾のお客様から
ぜひ技術者に来てほしいとの要請がありました。
しかも、「英語を話せる技術者」との指名です。
部下に早速伝えました。
「会社の仕事で台湾へいけるで!
いいチャンスや。
誰か行きたいという人に行ってもらうで」
と投げかけました。
私はエントリーする部下が多すぎたらどうしよう
かと待っていましたが
一人も名乗り出ませんでした。

「誰もおらんのやったら俺が行くで」
私も英語に自信があるわけではありません。
結局、私が行かせてもらうことになりました。
台北から台中、台南への訪問の旅。
私が気づいたのは
英語がそれほど重要なのではなく、
相手の技術者の悩みを聞き出して
ソリューションを提供できるかどうかを判断する
ことが大切なことなのです。
台湾は中国語文化です。
中には日本語が詳しい方もいらっしゃいます。
漢字の文化なので最悪は
漢字を書いてやり取りはできます。

一度台湾へ行くと
今度は米国の駐在員から要請が、
続いてヨーロッパの駐在員から要請が
くるようになりこうして私の
海外出張人生が始まりました。
おりしもBluetoothの走りの時でした。
IBMのノートPCに搭載されたBluetoothの
PCMCIAモジュールは東芝さんが作ってました。
東芝さんはそのデザインをコペンハーゲンの会社に
投げていました。
早速私はそのコペンハーゲンの会社へ行きました。
私たちの部品を使ってくれと依頼すると
「もう使ってるよ」と言ってくれました。

「なんで?」と聞くと、アメリカの半導体メーカー
のリファレンスデザインに搭載されているから
との答え。
それは私が数か月前に訪問したカリフォルニアは
シリコンバレーにある
ナショナルセミコンダクター社のヨーコさんという
女性の技術者に紹介したものだったのです。
セットメーカーの設計の方は
最初に半導体メーカーのリファレンスデザインに
基づいて部品を選ぶんだということを知りました。

それから私の半導体メーカー周りが始まりました。
フランスはグルノーブルにあるSTマイクロ、
ベルギーにあるアルカテル、アメリカのインテル、
AMDなど。
STマイクロさんからは
「こんなところへくる部品メーカーはおらんよ。
あんたの所から買っても年間で
100個くらいしかないよ」
私の答えは「年間に100個程度なら
無償サンプルで上げるよ。
私はあなたのお客さんから
大きな注文がもらえたらいいのですから」
イスラエルにも行きましたし
インドにも何度もも訪問しました。
半導体メーカーがリファレンスデザインを行う
部隊がいるところ、そこが私の職場だったのです。

恐らく会社の幹部の方々は私が何をしているのか
正確に理解している人はいなかったと思います。
それは私にとっては非常に
「ラク」なことなのでした。
あ、私の英語力が秀でているからなんて
思わないでくださいね。
私の英語力は大したことないです。
ある時、駐在員の人と会社訪問から帰るとき
私は「今日のミーティングは良かったなぁ。
使ってもらえるようになって!」
と投げかけたのでした。
するとその駐在員からの答えは
「坂田さん、notがついてましたよ!」
私の頭は使ってくれると思い込んでましたので
notなんていう単語は耳に入らなかったのです。
こんな珍道中もいっぱいありました。

一つ感じたことがあります。
日本のお客様では「検討しておく」という言葉は
「検討しない」という意味なのです。
しかし、海外のお客様へ行ったときに
「この間来た時には考えておくと
言ってくれたけど、その後どうなった?」
って聞くと
「すまん、まだやってない」
という答えになったとしても
一週間後には答えをくれました。
日本の義理人情はすたれてきているけど
海外ではまだまだ義理人情は通用するんだと
感じました。

飛行機はスターアライアンスを乗り継いでいたので
一つ遅れると次の飛行機に乗れません。
一泊するはずのイタリアにその日のうちに入れなく
なって、ウィーンから朝入って夕方には
フランスへ飛ぶなんてこともありました。

2か月連続で世界一周したこともありました。
この時はさすがに自分の身体がどこの時間で
動いているのかわからなくなりました。

そんな風にして販路を拡大していったのですが、
私が松江から帰ってしばらくすると
会社の整理統合の話が具体的になっていました。
実は私が労働組合の支部執行委員長をしている
ときからその話はありました。
私が中央執行委員長にお願いしたことは
単なる事業部の統廃合ではなく
部品事業の再編という観点なら受けられます。
そんな話をしたことを思い出しました。
結局私たちの事業部は当時の
松下電子部品株式会社に統合されることに
なりました。

私が松下電子部品へ移って2年ほどしたときに
あるグループを任されました。
52歳になってからGMです。
もう若い人に任せたらいいんでは?
と固辞していましたが
社長の直々の指名なのでやってもらわんと困る
というのが当時の上司の説得文句でした。
私は松下電子部品の社長と面識はありませんので
「そんなわけないやん!」って思ってました。

で、私がやったことは以前にやっていた
半導体メーカーとのコラボでした。
社内にも半導体を担当する会社があるので
そことも連携した活動を進めました。
私も実際に半導体メーカーへ出かけていましたので
社内にはあまりいません。

あるとき、上司から
「坂田君は管理職なんやから外へ行かずに
中でどっしり座っていてくれ!」と言われました。
しかし、私の信念は
「管理職が現場を知っていないと
正しい判断ができない。そのために管理職で
あろうと市場に近いところにいるべき」
ということだったので、その指示は無視しました。
「いやなら管理職を外してくれ。
俺にやらせるのなら俺流でやる」
そんな意識で担当していました。

お客様に声をかけていただいてる限り
私がやっていることは正しいと信じていました。
時には半導体メーカーだけではなく
直接の競合メーカーにも行きました。
相手が構えている中
私は自分の会社ではできないことを
お願いしたのです。
それはお客様のためにという思いから取った
行動でした。
当然上司からは叱られましたが
私はお客様のために正しいことをしたと
今でも思っています。

私が一番嫌だったことは部下の査定でした。
一定の割合で最低の査定をしなければならない
規則になっています。
自分に納得できないことをするのって
イヤですよね。
私はこれが嫌だったので
早く役職定年を迎えて会社を去りたいと
思っていました。
おりしも経営状況がよくないときでした。
年寄りは早く去って若い人に後を任せる時期が来た
と私は認識していました。

通常55歳と決まっていた役職定年が
私に適用されたのは57歳になった年でした。
そしてその年にこれまでお世話になった方々への
あいさつ回りに使った後
社外出向の道を選びました。
小さな部品・部材の商社へ入れていただきましたが
結局そこの社長とけんかして
一年を待たずに辞めることになりました。

あるとき従業員に対して社長が一冊の本を
示しました。
「この本はいい本やから
ぜひ自分でお金を出して買ってくれ。
いいか。自分で買うんやで」と。
私はそれはいい提案だと思いました。

ある時、居酒屋で社長と話していると
その本を自分の息子である専務には
買ってあげたことを暴露しました。
「何してるん?社長!従業員には買わせて
自分の息子には買い与えた?」
そのことで一気に社長に対する信頼感は
なくなりました。
この歳になってこんなことでイライラしたくないと
思って辞めたのです。
最も、私の力量を買ってくれたのではなく
私の人間関係を利用したかっただけということを
感じていたこともやめる決断をした理由の一つです。
そしてもう一つの理由は1年と11か月前の退職まで
が早期退職金割り増しが適用されることも
大きな理由の一つでした。

こうして私は一年早い定年退職を迎えたのでした。