死ぬときはひとり?

令和元年7月は私にとって忘れられない年になりました。
7月7日に母が逝き、7月30日には義母が他界しました。

どちらも看護型医療施設や病院で看取りました。
義母には家内がずっと付き添える環境にいましたので、
最後をしっかりと二人で看取ることができました。
母の場合は施設から連絡があって、
すぐに向かったのですが、すでに息を引き取っていました。
つまり、最後を看取ることができなかったのです。

義母はかねてより認知症がひどく、家内のことを認識できませんでした。
恐らく私のこともわからなかっただろうと思います。
それでも最後の時はしっかりと目を見開いて、
私たちの方を見てくれました。
恐らく最後は私たちのことを認識していたんだろうと思います。

一方で母は認知症はそれほどひどくなかったので、
私たちのことは認識していたと思います。
だから、最後に息を引き取るときに
誰も知っている人が周りにいない状態でなくなったのは
さぞかし寂しかっただろうなぁと後悔が募るばかりでした。

以前に読んだ書物の中で、
「人は生まれてくる時と死ぬときは一人なんだ!」
っていうようなフレーズを聞いたことがありますが、
そうではないように思います。

生まれてくる時も周囲から期待されて、
少なくとも親には見守られて生まれてきます。
死ぬときもだれか近親者の人が周りにいてくれます。

人は決して一人ではないのです。

だけど、ひとりになってしまうことはあります。
ひょっとするとそれは「本人」が選ぶことなのかも知れませんね。
最後の選択で
誰か居て欲しい人に居てもらうことを選択するか
最後の姿をみられたくないのでひとりで逝くことを選択するか。

認知症になっていたとしても、最後はすべて認知しているようにも思えます。
大切なことは選択することを決断すること。

人は生まれてくる時と死ぬ時を除いて
「選択」と「決断」の繰り返しだと思ってきましたが、
生まれるときだって母親を選んで生まれてくるという話もあります。
死ぬ時にも誰に居て欲しいか、あるいはひとりで逝くのかを選択するとなると
人間は生まれてから死ぬまで選択と決断の繰り返しなんですね。

どの道を選び、決断するのかはあなたの自由です。
そして間違いはありません。

勇気を持って決断し、選択した道を楽しむ生き方が大切かも?

だけど、私の母も義母も最後をどうしたいのか、
自分で選択することはできませんでした。

母は声が出なくなり、筋力も衰えて字を書くこともできません。
義母は認知が進み、自分の意思表示ができる状態ではありませんでした。

だから・・そばにいる私たちがくみ取ってあげないとダメなんでしょうね。

果たして、自分にそれができたかどうか・・

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