母との別れ

2019年2月17日(土)。
それまで母がお世話になっていたグループホームから電話が。
朝食を食べてから呼吸が苦しいと言い出し、酸素濃度が下がっているので救急搬送するとの連絡でした。
救急搬送された病院での見立ては誤嚥性肺炎と慢性心不全。
年末より筋力が弱まり、筆を持つ手も定まらず、
いわゆる「ミミズが這ったような字」で年賀状が届いた姉が困惑していました。
医師からは今日明日かも知れないので、関係者を呼ぶようにとのこと。
すぐに、兄弟や子供たちに連絡しました。
その後、病院に入院している間に食事が口から取れなくなるとともに
声も出なくなってきました。
病院では治療することがなくなったとのことで、療養型医療施設に移ったのが3月の中旬でした。
この病院を選んだ理由は花がキレイだったこと。
生前花が好きだった母が少しでもその花を見ることができれば元気も出るかな?
と思ったのです。
延命治療は望まなかったので栄養のない点滴だけで生き延びてきた母。
それでも7月4日に訪れた際には元気な顔を見せてくれました。
声が出ない口から何かを訴えようとする動きを感じて唇に私は意識を集中させました。
私に聞こえたように思ったのは
「私はここで終わるんか?」
のようでした。
どう答えたらいいのかわからずに
「大丈夫やで。土曜日には姉も来るから」
と返すのが精一杯でした。
そして7月6日。
姉と病院へ。
その時母は40℃の熱が出て、座薬を入れてもらっていたようです。
姉の口からは
「もう頑張らんでいいで!」
と。
私が看護師さんにお願いしたのは
「具合がよさそうな時には外に連れて出て、花を見せてやってください」でした。
7月7日の午前3時24分。
家の固定電話が鳴りました。
普段受話器を取らない家内が電話をとりました。
病院からでした。
「容態が変わったのですぐに来てくれ」と。
4時頃について、「おはようございます」と詰め所で声をかけると
ビクっと起き上がった男性が・・
当直の医師だったようです。
「これまで蘇生を試みましたが・・」
と自分が寝ていたことを蘇生と言っていました。
看護師さんからは
「気が付いた時はモニターがきれいになっていたと」
死亡時刻は午前4時となっていましたが、
恐らく午前3時には亡くなっていたのでしょう。
正確な時刻はわからず、死に目にも会えませんでした。
ひょっとすると母は死に際の顔を見せることを嫌がったのかも知れませんね。
それにしても、最後に好きだった花を一目みさせてやりたかったこと、
そしてこの世とのお別れの時を一緒に居てやれなかったことが悔やまれました。
令和7年7月7日の七夕は私にとって忘れられない一日となりました。