最初の結婚 ~仕事に集中するために~

最初の結婚

私は会社に入ってもバスケットボールを
続けていました。
その頃は年に一度、世間では運動会シーズンに
社内体育大会が開催されていました。
今はもうありませんが。
私が配属になった事業部も小さいながらも
複数の種目にエントリーしていました。
私がエントリーしたのはバスケットボールと
フリーテニスです。
バスケットボールは5人集めるのがやっとでしたが
ある年には社内でベストエイトまで進みました。
一日に三試合くらいありましたね。
前の晩もしこたま飲んでいたのでハーフタイムは
トイレへ駈け込んでました。

仕事に、バスケットボールに、コンサートに
飲み会に忙しかった若い時代でした。
そうこうしているうちに
女子のバスケットのボール部を作りたいとの話が
出てきたのです。
その背景は
どうもある女性と私をくっつけるために別な女子が
画策したものだったようです。
結局よくある話のように
それを仕掛けた女性を好きになりました。
そしてお父さんのもとを訪ねると、
彼女のお父さんからは
「二人の男に同じ約束はできません」と。
なるほどと変に納得しましたが
私はその彼女と結婚したのです。

私の結婚観は両親から受け継いだものでした。
当時流行っていた言葉に「男は黙って○○ビール!」
っていうのがありました。
少し時代は異なりますが
「24時間闘えますか?」っていうのもありましたね。
男は働いて稼いでくる。
仕事に集中するためには家庭を守ってくれる人と
早く結婚すべし!
そんな感じだったと思います。
家事や育児に男が口を出すものではない。
「男子厨房に入るべからず」
といった感じでしょうか。

結婚して2年後には子供が生まれました。
長男の誕生です。
初めて我が子の顔を見たときの感動は
すごかったです。
私が父親!さらに頑張らなければ!
と決意を新たにしました。
その頑張る方向は当時の妻が思っていた方向とは
違っていたのです。
妊娠うつになっていた時や育児で悩んでいるときに
おそらく何か助けになるようなことは
してやれなかったのです。いや、してやらなかった
というのが正解でしょう。
「いてほしい時にいない」父親であり
夫だったのです。

私の「家族のために」という定義は
しっかり働いて稼いでくることでした。
母は口癖のようにいってました。
「お父さんは工場長で若い人の査定に悩んで
あいつにはもっと給料だしてやらなあかんなとか
言ってるけど自分の給料はぜんぜん上がらへん。
そやから私が働きにでんといかんのに
わかってないわ」
というようなことでした。

そんなこともあって私は外で稼いで給料を家に入れ
妻や子供に何不自由ない生活をさせてあげることが
男の生きる道と信じていたのです。

妻が図書館で働きたいといってもやったらいいやん。
たまたま妻の両親が近所にいてくれましたので
子供の面倒を見ることなどはお任せしてました。
妻が海外旅行に行きたいと言えば、行っておいで。
絵にかいたような「いい家族」のように
外からは見えていたことでしょう。

労働組合の活動 ~いよいよ家庭を顧みない生活に~

労働組合の活動に専念

そうこうするうちに私は労働組合の活動に
足を踏み入れました。
2年間だけ・・・の約束が10年に及びました。
当時の労働組合の主たる活動は政治活動でした。
自分たちの主義主張を実現するためには
政治に関与すべきだと。
国政選挙のみならず地方議会にも
組織内議員を送りだし

日ごろから住民との信頼関係を築きあげることが
主な活動でした。
選挙のたびに私はオルグ担当として1軒1軒の
お家を訪問する役割を担っていました。
会えるまでは終わらないのです。
昼間にお伺いしていらっしゃらなければ夜に行く。
それでも会えないときは休みの日に入る。
そんなことを繰り返しているうちにどんどん
家にいる時間が短くなっていくのでした。

私たちの支部は大阪と松江に拠点があってそれぞれが
別の支部、分会として活動していました。
それを統合する話になって
統合した後の初代の委員長を誰がやるか?
ということが課題になりました。
正確に言うと松江は支部でしたが
私がいる大阪は別な支部の分会で私は分会長でした。
支部と分会を統合するのですから私は
当然松江支部の委員長が統合した後も委員長を
やるべきだと考えていました。

ところがある日、会社の経営幹部から呼ばれて
「お前が初代の支部執行委員長をやれ」と。
なんで会社から指示されんといかんのや!
ってはねつけましたが
多くの組合員も大阪から委員長を出すべきだとの声。
つまり
松江は地方会社の組織であって給与体系も異なるので
最初は大阪の電器産業の人間がやるべしとの声が
大勢を占めるようになってきたのです。
私はかたくなに固辞しており
私が所属する支部の委員長にその答えを
預けておりました。

ある日、私の処遇をあずけた委員長が
名古屋の出張から帰ってきて
自宅でくつろいでおられるときに急逝されました。
現役の委員長が亡くなったことで
お葬式は盛大なものとなりました。
私はそのお葬式の駐車場係をしておりました。

式が始まった当初は雨が降っていましたが
終わって皆さんがお帰りになられるときには
晴れていました。
亡くなられた委員長の涙雨かな・・・
ところで私はどうしたらいいの!?
と考えてぼーっとしていると
目の前の車に人が乗り込んでいるのが見えました。
4ドアのセダンで4枚のドアが開いていました。

するとなんとなくその車がドアを4枚あけたまま
私の方へするすると動いてきているような気配が。
運転手とは目と目が合っています。
ドアも開いています。
車を止めてっていう意味でボンネットをポンポンと
手でたたきましたが止まりません。
??なんのこと??
って思っているうちにどんどん進んでくるので
思わず私は振り向いて逃げようとしました。
が、そこにはバンが横付けに・・・
私はそのバンとセダンの乗用車に挟まれました。
膝を骨折しました。
駐車場内での出来事なので
交通事故にはなりません。

病院でギプスをはめてもらって松葉杖を借りて
事業部へ戻りました。
するとみんなから驚きの声が・・
私は両足を切断したことになっていたのです。
その私が松葉杖をついてひょこひょこ玄関から
ひとりで入ってきたのですからさぞかし驚いた
ことでしょう。
私は一週間ほどお休みをいただいて考えました。
委員長は私に何を言いたかったんだろう?
「やれと言ってるの?やるなと言ってるの?」
私が悩んだときに出す決断は自分ではなく
周りがいいと思う決断です。
そう、自分や自分の家族でもなく
組織にとってのいい決断は?
私は引き受けることにしました。

それからは松江と大阪といったりきたりで
より一層家族と過ごす時間が少なくなったのでした。
そのうちに息子が小学校を終え
中学校へ上がるタイミングになりました。
妻に相談することもなく
私は大阪から私の実家に戻ることにしました。
両親が今の家を出ることはないだろうと
勝手に考えていたので、それであれば長男たる私が
戻るしかないと。
だって私は長男、そう跡取りなのですから。

そしてそのタイミングは息子が中学校へあがるとき。
そう私は勝手に決めて実行しました。
大阪のマンションを売り払い、実家の
昔田んぼになっていた土地を地上げして
そこに家を建てたのです。

父の死 ~言葉すくなだった父の背中を見て育ちました~

父の死

父親についてはあまりこれまで
触れていませんでした。
戦争の時は海軍に所属し
フィリピンで捕虜生活をしていたそうです。
しかし、夜には抜け出して近くの畑で作物を
盗んだりしていたとか。
捕虜生活も楽しそうでした。
時代劇が好きでした。
特に赤穂浪士と座頭市が好きでした。
夏に戦争物のニュースがあるとくぎ付けでした。
戦艦の名前はすぐに出てきていました。
唯一の楽しみはパチンコでした。
景品のお菓子をよくもらったものです。
お酒は飲みませんが
お酒の席を盛り上げるのは好きだったようです。
ですから法事でも盛り上げるのは親父で
お酒の相手は私といった役割分担でした。
なにひとつ愚痴をこぼしたことは
聞いたことがありません。
毎日決まった時間に仕事に出て
決まった時間にパチンコ屋へ行って帰ってくる。
多くを語らず、背中で語る・・
そんな背中から私はいろいろと
”勝手に”受け取ったのだと思います。

大工仕事が得意な父でした。
孫である息子、姉の息子ともども百貨店の
屋上遊技場へ連れていって遊ぶのが好きでした。
よく子供たちは遊んでもらいました。
でも嫁・姑の問題で母ともめた時には
言葉がないために食器が飛んでいたことを
覚えています。

会社を定年してからは家にいることが長かった
と思います。
母に、老人会の催し物に参加するように
促されていました。ボケ防止だったのでしょう。
タバコもやめるように言われていましたが
母に隠れて吸っていたのです。
最後までやめられませんでしたね。
晩年は肺を患い
酸素ボンベを背負っての生活になっていました。

ある寒い朝、母の声で目が覚めました。
親父がトイレから出てきたところで倒れたと。
私が救急車を呼ぼうとすると
「呼ばんでええ!」と一喝されました。
それから主治医を呼んで死亡を確認してもらい
お通夜、お葬式と淡々と進んだいきました。

私が親父の背中から学んだのは「誠実さ」でした。
「真面目」という言葉がぴったりかも知れません。
何が好きだったのかもわかりません。
タバコはずっと吸ってましたが。
本当にいいひとだったと思います。
悔いはなかったのかしらん?

親父が生きている間は年に一度
お盆の季節には親戚が墓参りに訪ねてきていました。
しかし、どうでしょう。
親父がなくなった途端に親戚の墓参りの足が
止まりました。
自分の親の墓参りってしないんだ。
今までは何だったんだろう?
と不思議に思うようになりました。

それ以降
親戚と顔を合わせるのは誰かが亡くなった時
つまりお葬式だけとなりました。
親父が守ろうとして私がそれを継ぐはずだった
「イエ」ってなんだったのでしょう?

離婚 ~よそ者が入り込めない母の城、それがイエ~

離婚

息子が18歳になったとき、前妻は家を出ました。
息子を置いて。
妻にしてみれば予定通りの行動だったようです。

いて欲しい時には家にいない
そんな旦那と一緒にいるのは耐えられなかったのでしょう。
しかも何の相談もなく
勝手に実家に帰ることを決めてしまったのです。
人生の大切な決定を勝手に決められて
今から思えばひどい夫でした。
ある時男が訪ねてきて別れてくれと
言われたことがありました。
私は受け付けませんでした。

その時の価値観で言えば、
坂田家の長男が離婚しただなんて
隣近所に顔向けができない!
という理由が最大かつ唯一のものだったのです。
後にして思えば私の母からのプレッシャーも
相当なものであったのだろうと思います。
坂田家の長男の嫁たるものはかくあるべしと。
元妻は用意周到に準備をしてきたのでしょう。
自分はもっと自由に生きたい。
私と過ごす老後のイメージはないと
言い残して家を出ました。
この時にもまだ私の価値観は「世間体」を
重要視していました。
私にとっての3つ目の壁それは
「周囲の目を気にしている」ことだったのです。

私と母と息子の3人暮らしが始まりました。
その後、息子は大学受験に失敗し、浪人に。
私は松江と往復する生活でなかなか息子の悩み
を受け止めるには至っていませんでした。
浪人後には息子も大学に受かって
なんとかそれぞれの生活がスタートしたのです。

再婚 ~幸せって何?イエを守ること?それとも・・~

幸せ

前妻と離婚してから今の妻と再婚するのに
それほど時間はかかりませんでした。
2年くらいでしたでしょうか?
その出会いは職場です。
おりしもの不況のあおりで経営が苦しいとき。
新規事業を担当するグループにパート社員として
仕事をしていた彼女の一言が頭に残っていました。
「販売が思わしくないといいながら、
お客様からうちの新規商品を使いたいと
言ってきた依頼をなんで断るの?」

そんなことになってるんや!と思い
経費削減の通達を出してきた経理の責任者に
その話をしました。
経費削減も必要かも知れないが
販売を増やすことをなぜやらないのか?
元支部執行委員長のこの言葉はすぐに
事業部長の耳にも入ったようです。
やおら事業部長が私の所へ来て
「俺があの事業をやめろと言ったわけと違うで」
私はそんなことを言ったわけではないのでが・・

次の日からその新規事業の拡販部隊が
結成されることになりました。
なぜそのメンバーが
お客様からの問い合わせを断っていたのか?
それはその組織の上司の考え方だったのでしょう。
「失敗」を恐れていたのでしょう。
定年まで波風を立てずに過ごしたい
そんな気持ちで組織を運営していると
メンバーにもその気持ちは伝わります。
「こんな話を上司に持ち上げても
どうせやるなと言われるよなぁ」
と部下が勝手に解釈して
お客様からの注文を断っていたのでしょう。

話がそれましたが、そんな違和感を感じて私に
「おかしいんと違う?」
とチクってくれた女性が
後に私が再婚する相手となる今の妻です。
いったん彼女は私の勤めていた事業部を
離れますが、その後私が担当した
プロジェクトへ参加してほしいと思い、
再度パート社員として入ってもらったのでした。

一緒に仕事すると
なんだかすごくこき使われてました。彼女に・・
私はその時は課長職で、彼女はパート社員。
でも、彼女からは
「私が明日仕事するためには出社してくるまでに
このシステムが使えるようにしておいて。」
って言われて直接彼女の仕事を面倒見てくれている
社員とともに準備を進めておくのが日課になって
しまいました。
そんなやり取りが続く中で
お互いが離婚していることを知り
そのうち自然と一緒に暮らそうか・・
といった感じで進んでいきました。

でもいざ一緒になろうと考えても
お互いに子供がいます。
私にはまだ浪人中の息子がいたので
なんとか大学に受かってからというようなタイミングが
出来上がっていきました。
そして妻にも娘がいました。
小学生の間は動かずに
中学校にあがるタイミングで
というように時期は決まっていきました。

娘は大阪が好きなので
どうやって加古川まで連れて行くか?
そのポイントは「犬」でした。
今のままでは犬は飼えないけど
私のうちへ来たら「犬」が飼えるよ!
というのを条件にしよう!となりました。
それまでに私は娘となじめるように
何度か一緒に食事をしたり息子ともなじめるかどうか
みんなで旅行をしたりしました。

そんなある日、妻が娘に言われた言葉。
「自分が幸せなら子供も幸せやと思うな!」
そうなんや。
ここからがひょっとすると
私のノー天気なところでしょうか?
その言葉を聞いた私は、
「娘を絶対幸せにしてやる!」でした。
そして娘が中学校に入るタイミングで
加古川での生活が始まったのです。

娘が加古川に来てすぐにホームセンターで最初の犬
ミニチュアダックスフンドのチョコと出会い
一緒に生活することになりました。

それから半年もすると松江出向の話が
持ち上がりました。
せっかく加古川へ引っ越してきたのに
また生活環境を変えるのも大変ということになって
私が単身赴任することにしました。
これも私が勝手に決めたのです。
月曜の早朝に車で松江へ向かい
金曜夜には車で帰宅する
そんな生活が続いていました。
あるとき
息子から松江の会社へ電話がかかってきました
「ごめんけど30万円今日の3時までに振り込んで・・」
どうもサラ金に手を出していたようです。

家に帰った時に問い詰めるとまだまだありそうです。
そんなごたごたがあったので
単身赴任も限界かと思い会社に頼んで
大阪へ戻してもらいました。
そしてサラ金会社への返済に走り回りました。

妻はやはりそれなりに償いをさせないかん!
と息子に課題を課しました。
車は売っぱらって借金返済に充てる。
毎日庭の草抜きをする。
かれこれ一年くらい続いたと思います。

息子の結婚 ~何が大切なのか?妻に選択を迫られる~

幸せの選択

そうこうするうちに息子が結婚したい相手を
連れてくると言い出しました。
すると、妻からある提案が・・
「息子を養子に出せ!」
でした。名前も変えること。
それが条件でした。

それから妻と色々と話をしました。
私の母は私の家の隣で住んでいたのですが
嫁姑の問題が結構あったようです。
母にすると坂田家の長男の嫁たるもの
かくあるべし!との信念を強く持っていて
それを嫁に押し付けようとしていたようです。

私がいるときにはそんなそぶりは見せませんが
私のいないところではそのようなことが
結構あったようです。
息子を養子に出せと聞いた私は
「そんなことを言っても息子は
この坂田家にとって一人息子、
つまり跡取りやないか」
すると妻は
「あんたはイエと自分の息子の幸せと
どっちが大事なんや?」と。

妻が言うには
私の母がまだ健在なので息子の嫁が来ると
その嫁に対してつらく当たるだろうと。
それに息子の嫁が耐えられるはずはなく
別れることになるよと。
「それでもいいん?
お母さんの影響を受けないようにしようと
思うのなら名前も変えて奥さんの家に
養子に出すことや。
別れさせたいのならそのままでいいけど。」
といったのです。
妻は自分の経験から提案してくれたのです。

理屈ではわかりますが
田舎の長男の家に生まれて
長男として育てられた私の身体とこころは
すぐにはそれを受け入れることは
できませんでした。
しかし
前の妻が私のもとを去った原因の一つに
母の存在があったように思える節が
出てきました。
そうなんや
この家を守りたい母の怨念が
この家に「よそ者」を寄せつけないように
しているのかも・・
と考えるようになりました。
少し時間はかかりましたが
私は息子を養子に出す決心をしたのです。

息子の結婚に際して
サラ金の問題があったことを
先方のお父さんには打ち明けるつもりで
息子と先方のお父さんと3人で飲みました。
そして突然に何の前ぶりもなく
息子の借金の問題を告げておきました。
お父さんの腹の中にだけ収めておいてと。

すると先方のお母さんが
エライ剣幕で怒鳴り込んできました。
どうも向こうのお父さんは
隠し事ができなかったようです。
事情を離し養子に出すことになった
いきさつもすべて話しました。

なかなか納得される様子はなく
最後に私が伝えたのは
結婚するのはお母さんではなく
息子とお宅の娘さんです。
二人のことは二人に決めさせたらいかが?
先方のお母さんの言葉は今でも覚えています。
「娘は私より厳しいからね!」

結局二人は結婚しました。
今では息子家族は幸せに暮らしています。

娘の高校から呼び出しが ~組織のために生きる?誰が?~

組織のために

犬もチョコに続いてティーナが加わり、
にぎやかな生活が続いていきました。
娘は高校への進学の時期となりました。
私がそうだったように、普通高校へは行きたくないと。
そんなとき、近所の高校で自由度の高い
自分で授業を選べる
単位制の高校があることを知りました。

なんとかその高校に合格。
高校生活が始まりました。
バスケットボール部の選手に恋して
そこのマネージャーになったり。
家から高校は近かったので
帰りには友達もうちへ寄ってくれたりして
楽しく生活をしてくれていました。

そんなある日、学校から呼び出しがあったと
妻から告げられました。
なんでも校則を守らず
注意しても聞かないからとのこと。
靴下が規制外のものだから学校で購入して
履かせたのでお金を持ってこいだとか。

指定された時間に行くと
なんだか体育館のような広いところで
相手は学年主任、副主任、そして担任の先生が。
こちらは妻と私の二人。

話を聞いて謝るべきところは謝るも
なんだかその規制はおかしいのでは?
と指摘すると、学年主任らしき人が
あなたも松下電器に勤めておられるのなら
組織を守ることが大切だということは
わかるでしょう?
と。
私のもっとも忌み嫌う言葉を発したのでした。

私が申し上げたことは
組織とはお客様や社会の役に立つためにあるもの。
決してその存在を守るための対象ではないと。
そのために三洋電機は
会社の存亡の危機に立っている。
そんな社会の常識も知らない人が
私の娘に何を教えるというのだ?

私の言葉は止まりません。

あなた方に取ってお客様とは誰か?
今、あなた方の目の前にいる私たち
そして直接的には娘である。
その娘は今、思春期にいる。
確かに難しい面もあると思うが
なぜこのようなことになっているのかを
考えたのか?

と担任に問いかけると何も答えはないまま
時間が過ぎていきました。
一体どれだけ待てばいいのですか?
という言葉に、
「そろそろ」と終わらそうとするので
「私は納得していません」
という言葉を残してその場を後にしました。
結局何も決まらないまま後味の悪い結果でした。

いまだにその時に支払った靴下の領収書は
もらってませんが、娘とその友達が期待していた
結果になったのであればいいのですが・・・

義父の死 ~義母の将来を託される~

義父の死

義父はチョコとティーナをよく可愛がって
くれました。
チョコとティーナも私たちのいうことは
聞かなくっても
義父のいうことはよく聞いてました。

そんな義父がせき込んで通院してしばらく
するとがんの検査のためにがんセンターを
訪れました。
まだ結果は出ていませんでしたが
義父が窓口へ支払いにいくと
窓口のお姉さんが優しく
「がん保険の手続きをしましょうか?」

お医者さんに言われる前に窓口のお姉さんに
がん宣告をされたのでした。
入院も緩和ケア病棟に移ると
妻と義母が毎日付き添いにいってました。

食べたいものがあるかと聞くと
蓬莱のアイスキャンディーだと。
私が会社の帰りに買って帰ってくると
おいしそうに食べてくれました。

そして二人の見守る前で
私の手を強く握りしめたのです。
言葉にはなりませんでしたが
私には伝わりました。
義母のことをよろしく頼む
と言いたかったのです。
義母は足が不自由でした。
自分一人では買い物にも行けなかったのです。
ですから自分が死んでしまった後の
義母のことが一番の心配事だったのです。

そんな義父が息を引き取ったのは義母と家内が
話し込んでいた時だったそうです。
二人で義父の悪口を言っていると
突然看護婦さんが入ってきて
「呼吸が止まっています!」と。

病院って生きている間は
手厚く看病してくれますが
亡くなるとすぐに出て行ってくれ
というような話になります。
義父が亡くなったのは日曜日の夜中でした。
それでも病院としてはすぐに出てくれ
とのことだったので
すぐに葬儀社に連絡を入れて出ることに。

バタバタすることで
悲しんでいる暇がなかったことは
良かったのかも知れません。
義母が私の家で同居するようになったのは
義父の一周忌を迎えた後でした。

娘の結婚 ~女三世代~

娘の結婚

娘は高校を卒業してから働きました。
アパレル関係のショップの店員はじめ
いろいろな職業を経験しました。
娘の特徴は決めてから報告することです。
事前の相談はありません。

あるとき私たち夫婦が旅行しているところへ
電話が入り今の仕事をやめて
次はこれをやるからと。
相談すると反対されるようなことを
やろうとする時はいつもこうです。
三宮で一人暮らしを始めるときも
いきなり帰宅するためにホームで電車を
待っている私の携帯電話がなって
明日賃貸契約するから実印貸して!

そんな具合に振り回されていました。
そうこうしているうちに娘は大阪へ。
恐らく大阪へ帰ることを考えながらいろいろと
仕事を変えていたのではないかと思います。

年が明けて間もないとき
男の子を連れてうちに戻ってきました。
結婚相手だと。
もう少々のことでは驚かなくなっていました。
しかし、妻がひょこっといった言葉は
「あんた、子供出来てるんと違う?」

本人も気がついていませんでしたが
その通りでした。
そうなったとしたら早く結婚式の準備を!
急にあわただしくなった我が家でした。

その時から一番早く準備できる式場が5月でした。
その結婚式の前の日に、式場近くのホテルに泊まった
娘と妻、そして義母の3世代の女子で
夕食会が開催されました。

次の日は私がチョコとティーナと櫻子
そして母と姉を連れて式場へ。
華やかな一日の始まりでした。

じいやになる ~血筋ではなく魂~

魂の繋がり

息子のところには男の子と女の子が
それぞれ一人ずついます。
娘のところには女の子が二人。

私は娘の方の孫からは”じいや”と呼ばれるように
なりました。
娘の方の孫は頻繁に帰ってくるので
親しくなりますね。
昔風に言えば、
この子たちと私は血は繋がっていません。
それでも可愛いのです。

娘が嫁いだ実家のお父さんのことを
じいちゃんと呼んでいたので
私の呼び名は”じいや”となりました。

母はよく「血は争えない」と言っていました。
今の私の感覚は
「血筋なんて関係ない」
です。

初めてこの世に生を受けた息子を見たときと同様、
孫たちがこの世に生を受けたのを見て私のこころは
再び感動に震えました。

私が出会ったフィールドフォークの草分け的存在の
笠木透さんという方がいます。
すでに亡くなられていますが。

この人の歌に
「父さんの子守歌」っていうのがあります。
その歌を作った背景を
笠木さんはこう説明しています。

「おまえら、何回結婚してもいい。
何人子供を作ってもいい。
しかし、その子たちが大きくなった時のことに
責任を持てるか?」と。

生きている鳥たちが生きて飛び回る空を

あなたに残しておいてやれるだろうか父さんは

生きている魚たちが生きて泳ぎ回る川を

あなたに残しておいてやれるだろうか父さんは

生きている君たちが生きて走り回る土を

あなたに残しておいてやれるだろうか父さんは

 

改めてこの歌を自分に言い聞かせたものです。

そして私が大切にしてきた
「イエ」について考えました。
私のことを慕ってくれる目の前の孫は
私とは血が繋がってていません。

それが何か?

私は間違いなくこの子たちのじいやなのです。
これからも私はじいやとしてこの子たちの将来に
責任をもっていくのです。
血筋は守るほどの大切なことではなかったのです。
大切なのは血筋ではなく魂の繋がりなのです。